確かに動いた心をなかったことにしてしまうのは、自分の心に失礼だから。

「エレファント・マン」を観劇した感想

2020年11月12日、舞台「エレファント・マン」ソワレを観劇してきました。

 

 

まず、この一言がうれしくてうれしくて。私がジャニーズWESTのファンクラブに入ったのは、この舞台のチケット先行が終わってからだったから、自分が行くことなんてこれっぽっちも思っていなかったところに、お友達のジャスミンさんからの連絡。イベントの規制緩和に伴って追加販売分チケットがまだ入手できると知った。正直、とっても悩んだ。

 

ライブやエンタメの現場が大好きでコロナ前には週1くらいで何かしらに通っていたけれど、今回はおよそ9ヶ月ぶり。人が集まる場所に行くことへの不安があったり、行っていいのかなと思ったのは正直な気持ち。

加えて、今回の作品が発表された時にざっと調べてみたところ、体が奇形と言われた「エレファント・マン」の壮絶な一生という難しい役どころを、特殊メイクとかなしの体当たりで小瀧くんが挑むと知り、小瀧くんにとってきっと大きなターニングポイントとなる予感にドキドキしたし、受け止め切れるかな…という不安もあった。

 

でも、行こうと思えたのは、大前提として当然ながら、少しでも行こうと思える環境に身が置かれていたから。コロナ禍にあって、いろんな事情で観劇を諦めた方もいると思う。でも私はありがたいことに、会場である「世田谷パブリックシアター」に比較的安全に向かえる環境がある中で、カンパニーの皆さんは全力で今しか見れないナマモノを届けてくれようとしてるのに、見逃すのはなんか違う気がした。自分の置かれている環境に心から感謝したいという気持ちもあって、観に行ってから無事に2週間以上経ったあとで、きちんと観劇の感想(内容は月並みだけど)を書き残しておきたいとも思った。

 

前書きが長くなってしまったけれど、ともかく、観劇をしてきました。

 

以下、演出などネタバレをします。

 

 

 

 

 

「魂」

「言葉が出ない」

 

幕間の休憩に走り書きしたメモにこの二言。

 

観劇した方たちが口々に、「あれは小瀧望ではない、ジョン・メリックだ」とツイッターでつぶやかれていたけれど、幕が開いて理由がすぐ分かった。BGMは最小限、舞台背景はナシ、あるのは表裏に二分割された周り舞台と、椅子やテーブルといったちょっとした小道具、特段色味があるわけでもない照明だけ。

そして何より度肝を抜かれたのが、奇形と言われた男を演じる小瀧くんの最初の登場シーンが、腰に布を巻いただけの半裸姿だったこと。逃げも隠れも盛ることもできない殺風景なステージに現れる、知ってはいたけど生で見るといっそう驚くくらいにスラっとスタイルが良くて、二枚目アイドルののんちゃん(私にとってはこれがこの目で初めて見たのんちゃん。なんて鮮烈な出会い)。

 

演じるエレファント・マンことジョン・メリックは、1800年代に実在した人物。骨が岩のように飛び出し、至る所にある腫瘍のせいで肉がただれたようで、体が極度に膨張・変形した、原因未解明の障害を持つ男性。その容姿から親に捨てられ、見せ物小屋に買われ、迫害され、壮絶な人生を送っていたという、事実をベースにした物語。(恥ずかしながら、不朽の名作を今回の舞台の話を聞くまで知らなかったので、出会えた機会に感謝!!)

 

頭は胴体ほどの太さがあり、胸や腹、右手の肉がただれ、肉の間からは異臭を放ち、顔も膨らみ息をするのがやっと、さらに幼少期に腰を患ったことで足が曲がり杖なしでは歩けない、ただ左手だけは世の女性も羨むほどの美しさ……。

 

医師であるトリーヴスが体の特徴を一つ読み上げるごとに、のんちゃんの体のパーツが一つずつメリックになっていく。特殊メイクもBGMも特別な照明も衣装さえもほぼないのに、でも確実に「奇形」と呼ばれたメリックの体が、のんちゃんの身体表現ひとつで出来上がっていった。セリフのない時も、ひしゃげる口から漏れる吐息が耳をつんざくように聞こえる。

その吐息に、見ているこちらがどうしようもなく辛くなる。苦しい。目を瞑りたくなる現実をつきつけられているような、到底1人の人間の身一つだけで作り上げられたとは思えないほどの、とんでもない閉塞感だった。

 

その閉塞感を、身体的に体験して共感させてもらったことが、ストーリーの理解をより深くしてくれた気がする。当時のイギリス人たちも持ったんじゃないかと思う未知のものに感じる恐怖心を、観てる人それぞれの心の中に再現してくれたというか、こういう3次元的な体験が、生の舞台の醍醐味だとはっきり思ったし、小瀧くんの演技に冒頭からいきなり心底吸い込まれいった。

 

身体表現だけでこれほどまでにシアター中に息苦しさを行き渡らせたのんちゃんは、確かにただただメリックにしか見えなかった。やっぱり舞台上にいたのは、のんちゃんではなくメリックだと私もそう感じた。

 

帰り際、吸い込まれるように買ったパンフレットには、戯曲原作者のこの言葉があった。

 

メリックの役を演じる者は、不自然なねじれた格好を長時間続けることで生じる問題について、医者の意見を聞いてほしい。

 

たしかに、上半身は右側に傾け猫背で、脚は内股で引き摺るように歩き、3時間の公演をマチソワ2本合わせたら1日6時間。とんでもない体への負担だと思う。体に不調を起こすことなく稽古の期間を含め千秋楽まで上演されたことが奇跡のようにも感じるし、日頃から筋トレに凝って体のことを気遣って過ごしていた小瀧くんなので、自分の好きなことを仕事にめいっぱい活かしてる現場を見れたようでもあって、そういう意味でもなんだかジーンとくるものがあった。

 

 

そんな前提があってこそ、メリックというキャラクターへの感情移入というか、没入感がすごかった。

登場人物たちがみなメリックを自分に似ていると口を揃えて言ったように、私も観劇中は、メリックという鏡を通じて自分の弱点をついつい省みてしまったりした。ねじ曲がった外見と、あまりにもまっすぐでピュアな内面とのギャップに見事に魅せられて、当時の英国貴婦人たちもこんな気持ちでメリックに会いに行っていたのかな、と感じることができて、会ったことも見たこともない100年以上前の人たちになんだかシンパシーする時間。

 

そうして出会う人たちの心を開いていったメリックが、徐々に上流階級にも「友達」を増やすようになり「普通の人間」に近づいていく一方で、体の変形が進んでいることで先が長くないと分かっていたトリーヴスの葛藤の描かれ方が壮絶だった。

その一つ、この舞台を語る上で絶対避けられないくらいの名シーンが、壮絶な心の荒波を表すようにトリーヴスが見た夢を描いたシーン。メリックは体をピンと伸ばし、トリーヴスと立場が逆転。冒頭でトリーヴスがメリックの体の状態を読み上げたのと同じように、今度はメリックがよく通る声で近代人にはびこる「病」を読み上げていったのだけど、もう本当にこれがすごかった……。のんちゃんが1秒前まで演じていたメリックと180度何もかも違う「普通の人間」として突然舞台に現れ、凛として太く通る声と、手足がスラっと長いスタイルの良さを最大限に活かした圧倒的に存在感のある佇まいを遺憾なく発揮していて、会場中のすべての空気が張り詰めてしまうくらいの緊張感が一気に漂って、あまりのギャップとパワーある演技に思わず泣いてしまった。ストーリーの重要な転換点でもあったけれど、それ以上にあんまりにものんちゃんの表現がど迫力すぎて。1つの舞台で、これだけの振り幅の演技をされるなんて、もう小瀧くんのお芝居からすっかり目が離せなくなってしまった!知ってはいたはずだけど若干24歳という年齢がなおのことビックリで、5年後10年後ももっと先も、これからののんちゃんの活躍が心から楽しみ。いろんな役どころを見せてもらえる機会があったらいいなと思う。

 

 

そして、トリーヴスが葛藤を抱え込むことになるきっかけにはいつも、ピュアで好奇心旺盛なメリックの姿があった。

 

「普通になるっていうのは死ぬことなのかな」

「慈悲深いことがこんなに残酷なら、じゃあ正義の為にはどんなことをするんです?」

 

問いかけの数々は、何度も胸に刺さった。死に向かって生きて、慈悲をふりかざすことが人生の意味なのか?生きる価値とは何なのか?全く答えが出ないというか、普段考えることを無意識的にやめていることばっかり、ピンポイントに短い言葉で仕留められたようなセリフが並んで、舞台を見つめながら何度も何度も逡巡していた。考えすぎて、幕が降りる頃には頭痛がするくらい考えさせられるセリフの数々だった。

でも、時間をおいて思うのは、私が生きる意味なんていうことをグチャグチャ考え込んでしまったことそれ自体が、産業革命を迎えていた当時のイギリス社会へのアンチテーゼなのかな、ということ。

 

人々が幸せになるために、便利な工業化社会がやってきた19世紀のイギリス。でも実態には、幸せばかりが増えるわけではなく、高度な成長に追いつくために働き過ぎて心身をすり減らす人があり、流行していたコルセットで体を不必要に締め付けて身を滅ぼす者がいて、突然得たものも大きければ、突然失うことになってしまった物も多かった時代だろうと、トリーヴスの独白シーンからも思わされた。

大きく価値観が揺れ動き、幸せの意味がぶれ続けただろう日々にあっても、メリックの「普通の人間になりたい」という想いや、芸術を愛する心はいつだってピュアでただただまっすぐだった。メリックは「普通の人間」になるという明確な幸せに向かって、一歩ずつ丁寧に噛み締めながら歩んでいたように受け取れた。そうでありながら、トリーヴスやケンダル夫人、ゴム理事長などメリックを取り巻く人たちはみんな、メリックにとって、もしくは自分にとっての幸せが何かを考え過ぎてしまったのかもしれない。

幸せは本当はシンプル。毎日生きて、今自分が幸せと思えることが大切なのに、メリックが純粋な心で投げかけた問いを考え込む私は、当時メリックを取り巻いた人々と同じ。奇しくも、100年以上も前から近現代人が同じような病にかかり続けていると実感させられた気分だった。こんな時代だし、自分の心の中の尺度で幸せを大切にするって難しい時かもしれないけれど、たくさんの簡潔で難しい問いが重ねられるごとに、その重みを実感するばかりだった。

 

そんなメリックにとっての幸せを象徴するようなシーンが、クライマックスにあたる彼の死だった。トリーヴスが、メリックへの葛藤を抱えきれなくなった頃に訪れるこのシーンだけれど、頭が大きく重すぎるあまり人生で一度も横になって寝たことのなかったメリックが、初めて「普通の人」と同じようにベッドに横たわって眠り、そのまま大きな体に内臓が圧迫されて終わりを迎える。あんまり近い席で見ていたわけではないけれど、のんちゃんの表現するメリックは、苦しみや不幸を乗り越えた穏やかな幸せだったように感じている。だって、「普通の人」がすることをやって命尽きたのだから。この死に目にトリーヴスが立ち会ったわけではないことが、残された人たちの心にそれぞれの解釈の事実を残すことになるのだろうけど、トリーヴスに関しては、メリックは幸せだったと心から思える日が来るのか来ないのか。来たらいいなと思う。

 

 

まとめる気もなく長々と思ったことを書き連ねてしまったけれど、とにかくとにかく、小瀧くんやカンパニーの皆さんが見せてくださった世界は、体で感じる大気まで特別で尊くて、舞台の醍醐味をひたすら感じさせてもらっていた。

 

木場勝己さん演じる理事長の存在感、近藤公園さん演じるトリーヴスの徐々に闇を帯びていくゾクゾク感、そしてオーラまで美しい高岡早紀さんのケンダル夫人などなど、たくさんのキャラクターに出会えたかと思ったらキャストは9人だけ!小瀧くん以外全員が複数の役どころをこなされていたそう。馴染みすぎて、気付けずにあとからパンフレットを読んでたまげてしまった…久保田磨希さんの役、あの大風呂敷のナースに皇太子妃にどんぐり頭…!全部印象的で個性的で、久保田さんじゃないようでどれも言われてみると久保田さんの強烈な存在感で、あとから配役をまじまじ見て感動がどんどん増していった。

パンフのインタビューでもあったけれど、のんちゃんは今回座長とは言えベテランさんたちの中に混ざる最年少。とにかくひたむきに真面目に稽古するのんちゃんを、付かず離れずカンパニーのみなさんでサポートされていた雰囲気がひしひしと伝わってきて、のんちゃんもそれに応えるように大先輩たちの胸を借りてメリックという人物像に思いっきり飛び込んだ賜物の舞台だったのだなあと、ほんとに感心してしまうばかりだった。舞台って、人が作るナマモノの現場って、尊い

 

 

 

つい先日ジャニーズWESTのファンになってから、のんちゃんのことは親しみ込めてのんちゃんって呼んでいたけど、今回この舞台で覚悟とやりきった魂を目撃してしまった今では、尊敬を込めて小瀧さんと呼ぶことが多くなった。文章中では、いろいろ心のバランスをとろうとして小瀧「くん」ってジャニーズの後輩タレントにでもなったような呼び方になってしまってておかしいなと感じてはいるけど、今感じてる熱量はせっかくだからそのままにしておこうと思う。

 

3回あったカーテンコール、3度目の登場で、まっすぐ通るきれいな生声で発されたのんちゃんの「ありがとうございました」には、最後の最後に再び泣かされてしまった。WESTでいるビッグベイビーで聡いのんちゃんも素敵だけど、あんまりにも仕事に真摯で一途な瞬間に出会えて、振り幅なんて言葉じゃ足りないけど、芸達者な部分だけじゃなく、人間的魅力をたくさん知れた気がする。

 

のんちゃん、カンパニーのみなさん、配信まで全公演の完走おめでとうございました。奇跡のような時間に触れさせてもらえて感謝しかないけれど、次の現場も楽しみに待ってます。

 

「パパジャニWEST」paravi版を一気見した感想

WHLのあの「うがいコン」以降、まんまとKAT-TUNが気になっていたエイター、そういえば前に見てたドラマに中丸さん出てたなと思い、paraviを契約した。それが全ての始まり。ドラマ(2019年の「わたし、定時で帰ります。」)も、もちろん良くてあまりの中丸さんっぷりにあっという間に全部見たしそれはそれで感想を別で書きたいくらいなのだけど、爆速で見切ってしまったがために、無料期間中に気軽なやつもう1個くらい見たいなあという出来心で気楽にタップしてしまったのが、ランキング上位にあった「パパジャニWEST」だった。

 

そこから、3週間もかからずに47本を見切ってしまった。ねこ飼い始めた同僚が急に早く帰るようになるみたいな感じで、今日のうちに1本でも多くパパジャニを見たくて頑張って働いた。でも当初は正直、ここまで心を掴まれると思ってもみなかった。

1日託児をする台本のないバラエティがなぜこうまで面白いかって、ここまで要素を削ぎ落とした番組なら答えは明白で、出演者の魅力そのもの。こうしてじっくり拝見するまで気づけていなかったけれど、とっても1人1人が個性的なグループだし、エイトとはまた全然違ったグループならではの平和な空気感もたまらなかった(最初から最後まで、番組の立て付けがコロコロ変わることもなく、番組を始める前からWESTさんの個性にかけた構成にされていた制作さんのお力も、すごいとつくづく…!)

 

あまりにもお一人お一人の個性に魅了されてしまったので、見終わったばかりの今、視聴前後の印象をざっくり書いてみたいと思う。

あえて番組について本編以外の情報(記事とかツイートとか)にあまり触れていないので、番組への一般的な世論や、ジャスミンさんたちの見方と違う部分もあると思うのですが、もしくはありきたりな話ばかりかもしれないのですが、あくまで初めてWESTさんをがっつり拝見した私個人の感覚の覚え書きです。

 

 

〜〜見る前の認識〜〜

ジャニーズWEST

関ジャニ∞の地元の後輩。エイタメで丸ちゃんが「ジャニーズWEST売れてるぅ〜♪」(粉もん)って歌ってたから売れてるんだな〜って思ってた。ええじゃないかは知ってた。

 

中間淳太さん

横山さんの出る木曜ヒルナンデスでお見かけする、とってもきれいなお姉さん。クセがなさそう。

 

桐山照史さん

同じく木曜ヒルナンデスでお見かけする威勢の良い兄ちゃん。なんだか見てるだけで景気が良い。

 

濵田崇裕さん

なんでか知ってたハマちゃん。去年のカウコンお休みで客席にいたけど、メンバーみんながしきりにハマちゃんハマちゃん言っていたので、きっと愛されキャラ。

 

重岡大毅さん

メンカラ赤でセンターの方。歯が多いことは横山さんから聞いていた。重岡さんがエイトの公演を見学に来てた時、亮ちゃんがステージから「重岡すきやねん!!!!」と叫んだのを目撃し、あの亮ちゃんの寵愛を一身に集めている…だと……??と嫉妬に似た尊敬の念を抱いていた。ドラマでもお顔を見たことあったし演技お上手だなという印象があったので、なんだかんだ1番認識はあった。

 

神山智洋さん

ドリアイグリーンのリモート会議で初めて認識。作曲ができて踊れてピアスが多いという情報の破片だけで安田さんの風合いを感じて心がざわついていた。

 

藤井流星さん

言葉数の少ないイケメン。とにかくイケメン。正統派イケメン。国際的イケメン。

 

小瀧望さん

のんちゃんという愛称を聞いたことがあったのと、甘い顔立ちの雰囲気から、キキララちゃんみたいなかわいいキャラクターを想像していた。

 

 

 

〜〜見た後の感想〜〜

※敬意を込めながらも、一方的な私が思う心の距離を表すために一部心の中の呼び名で記載してみます

 

中間くん

グズる子いれば説得、泣く子あれば駆けつけ、好き嫌いあればメニュー考案、英語話者のお子さんがいれば英会話、ボケるメンバーあれば瞬時のツッコミ。できなかったことと言えば、泣きじゃくっちゃった赤ちゃんのお風呂入れくらい?でもそれも、わからないこと、できないことを素直に認めて濵田さんへの助けを求める必死な感じに思わずクスッときてしまう。だから印象としては、なんでもできる方。なのに、自分で自分のすごさが分かってない感じがして愛おしい。ついでに、割とぶっちぎり最年長なのに、後輩たちからいじられ倒されてるのも、周りから見えてるほど気づいていない感じ。あのイカらなさにオイシイという感情もあるのかもしれないけれど、見てるこちらが思っているほどいじられ認識が本人になさそうというか、それだけ度量が大きいというか、そんなふわっとした空気感にたまらなく癒される。

 

かと思えば、ハロウィンパーティーオバQ仮装。渾身の白塗り全身白タイツに鞄をジャニーズ持ちして颯爽と現れる、しっかり者の最年長の姿に大爆笑したのは言わずもがなだったけど、仮装から演出まで「めちゃくちゃ考えたもん」とおっしゃった瞬間に世界が変わった。ふわっとおおらかで天性の何かで笑いを誘っていると思っていたあの中間さんが、めちゃくちゃ考えて仮装して大爆笑をかっさらう。すでに私は彼の掌の上で転がされているだけだったとわかった時にはすでに遅かった。私のスマホはすでに中間さんのジャニウェブを開いて、さらなる中間さんを求め始めていた(自嘲的なひとり語りで雨に濡れたとかハイボール飲みすぎたとか教えてくれる日記、圧倒的な彼氏みでさらに沼だった。現場からは以上です)。

 

人格者でスキルもあって頭の回転も早くてカッコ良くて、でも奢らず自然体でおおらか。今まで横山さんしか見えていなかった木曜ヒルナンデスだったけど、中間さんのワイプもだいぶ目が離せなくなってしまった。

 

桐山くん

もはや桐山さんありきのこの番組。「#保育科出身の桐山パパ」ってテロップ、夢の中まで出てきそうなほどいっぱい見た。お子さんとの接し方はメンバーからも「大先生」と呼ばれていたほどだし、ワンちゃんも面倒見れるし、料理にDIY、紙芝居制作から凧作り、ボケにツッコミ…それでいて買い出し中に神山さんの目を盗んで自分のおやつのたこ焼き買っちゃうお茶目な一面もあって、何もかもをできすぎる方。こんなに「生きる力」のある男に惚れないわけがない。生命力がここまで強いと、惚れると言っても、女性が男性に向かって思うかっこいいに留まらないのだと痛感したのが、8月生まれの桐山さん・重岡さん・藤井さんへ誕生日プレゼントを持ち寄った回のこと。残り4人が、8月生まれの3人のうち1人へのプレゼントを打ち合わせなしで持ち寄った結果、全員が桐山さんへのプレゼントを買ってきてしまうという愛され度の爆発した事件を目の当たりにした。私もつい、桐山さんに6食分のうどんを差し上げて、月曜日と火曜日で食べ切って欲しくなってしまったもの。心は同じ…と思わずにいられなかった。

パパジャニを見進める中で噂を聞きつけ早速聞いた伝統の「レコメン!」木曜日の枠で、桐山さんは二丁目界隈の方からもアイドルとして崇められていると伺い、やはり彼の生きる力がみなぎってる感じは、年齢、性別、きっと国籍も超越してしまう最強の愛されキャラなのだと思った。

 

濵ちゃん

最初の印象は、言葉を選ばずに言えば愛すべきポンコツ。常にヤヤ滑りくらいをついてくるし、イヤイヤ期のお子さんを最初に泣かせちゃうのは彼だったり、アイドルがパパとして奮闘するドタバタ感はある意味誰よりもイメージ通りだったかもしれない。でも、ベストパパに何度も選ばれていたり、お風呂で濵田さんと遊んでいるうちにいい子のメッキをようやく剥がしてケラケラ笑うハルキくんの姿だったりを見ていると、映っていないところでの活躍がいっぱいあったんじゃないかと想像させる。特に印象的だったのが、夏キャンプでカードマジックに失敗して濵田さん本人はスベッたと落ち込んでいたけれど、冬キャンプで同じお子さんたちが自ら「今日はトランプやらないの?」と聞いたシーン。一生懸命にお子さんたちを喜ばせようとしていた想いは通じていたし、お子さんたちが褒めてくれたこの収録に濵田さんが骨折で欠席しているというのも、活躍を自慢しないアクもないてらいもない人柄の良さの象徴のようなシーンだった。

いち視聴者としても濵田さんの欠席回はなんか物足りないし、結局彼がいないと何も始まらないという思いをメンバーみんなも共有しているのもとっても面白いし、ハートフルなグループだなあと感じる。桐山さんとは少し違った、誰からも愛されるキャラクターに思えた。

 

シゲちゃん

名前を連呼する謎のお風呂遊びだったり、無表情な思春期男子に向けた渾身の肘と膝ピーン(顔芸)だったり、アクセサリーを炒めるという突拍子もない伝説的なおままごとだったり…。スベろうがどうなろうが常に不屈の精神で目の前にいるお子さんを喜ばせようとしていて、エネルギーが湧いて出る源泉のような方だなと感じた。あまりの不屈さに、ミコトちゃんが2回目に心臓マッサージごっこで笑顔を見せたときは、なんだか泣けてしまった。爽やかでカッコ良くって、スンとしてたらそれだけでも華があるのに、やたらと身を削ってしまうのは、重岡さんのファンサというか、有り余るサービス精神と向上心のなせる技なのかと思った。

常にムードを明るい方へ導こうとするのはお子さんに対してだけでなくて、きっと目の前にいて一緒に活動しているメンバーへもそうで、軽井沢キャンプの行きの車で、「内弁慶だからドラマの現場では黙ってしまう」とドチャクソ騒ぎながら喋っていたけど、そんな彼の雰囲気にメンバーも自然と顔が綻んでいく感じが、見ていて果てしなく美しい。きっと、ファンの方に対しても同じで、重岡さん担のジャスミンさんたちは、きっと幸せをいっぱいもらってるんだろうなあとなんとなく感じている。

 

ドラマ「知らなくていいコト」はリアルタイムで見ていて、迫真の演技の凄みに心震わせていたけれど、ジャニーズ事務所ってとんでもない役も引き受けるものだなあと思っていた。でも、今なら狂気じみたあの役どころのキャスティングが重岡さんだった理由がよく分かる。常に力いっぱいだからこそにじむアンバランスさを持った重岡さんがセンターに立つことで、グループお一人お一人の個性も余計に際立ってるんじゃないかなと想像している。

 

神ちゃん

調理後で食事前の慌ただしさの中でも忘れずにエプロンを折り目通りに畳んだり、箱アイスのソフトクリームのカップを全員分集めて重ねたり、その丁寧な仕事ぶりからむしろ「ママ」と表現されることが多かった神山さん。食事中に肘ついちゃダメだよとか細かいところまでよく気づくし、きちんとお子さんに注意できる神山さんに確かに母性が溢れていてとても素敵だった。

彼へ開眼したのは、カルタ作りの時。ふざけ倒す重岡さんと濵田さん、オチが見つからなくなって真剣に絵札を描く神山さんに絡みに行った時に、柔らかな雰囲気は突如一変。怒鳴ってぶちぎれるという姿を見せた。集中するあまりストイックになるし、感情の表現が思っていた以上に豊かでふり幅広くて、ギャップ好きな私は、次にどんな表情を見せてくれるか楽しみで仕方なくなった。そしてそこから、神山さんの感受性が恐ろしいほど豊かなことに気が付く。作った料理をお子さんが「おいしい」と言ってくれたことに対して美しすぎる涙を流したのをはじめ、恋するアイリちゃんに寄り添って応援する姿には海より大きな包容力を感じたし、かと思えば金勘定にめちゃくちゃ厳しかったり。基本的には眼差しの優しい方と感じたし、なんでもできて器用で大人の分別もありそうだけど、ゾーンに入ったら1番豹変してしまいそうな、まだまだ見れていない面がたくさんありそうなワクワク感がたまらなかった。

 

(と思ってとりあえずざっくり調べてみたら、ドラマCHEATで追い詰められて狂気的になるあの詐欺師は神山さんだったなんて…!ドリアイなにわの日も、記憶が正しければYSSBで色気たっぷりにシャウトしていたのも神山さんだったような気がする。ギャップ…!!演技もライブももっと見てみたい…!)

 

流星くん

パパジャニをいくら見進めても変わらない1つの真理、やっぱりイケメン。こんなイケメンをパパって呼ぶなんて憚られるから、むしろイケメンすぎて彼だけハンディ背負ってるのでは?という要らぬ心配さえしたくらい、どの角度から映り込んでもイケメン。でももちろんそんな心配不要なくらい、優しくてお子さんに寄り添う姿が印象的だった。男らしくなれないお兄ちゃんが来た夏のBBQ回には「本当は優しいからこの子は偉そうにしないんだ」(ニュアンス)とか言ってあげるし、大家族スペシャルで高校生の長女をお迎えに行き2人で過ごす車内でも、大家族で迎える思春期ならではの悩みを真摯に聞き受け止めてあげていた。優しくておっとりしていて、流されず自分の価値観で冷静に見定めていっている感じがして、見てるだけで気持ちが穏やかになる。

ただそんなおっとりコアラさんのような雰囲気を纏いながら、我が道を行きすぎてとにかくド天然になってしまうのも、大きな見どころだった。そもそも私が最初に見たパパジャニは、paravi最終回の地上波お引っ越しスペシャルで、流星さんの付け替えられないソケットと見つからないキーホルダーに大爆笑したのが始まりだった。1周してまた最終回に戻ってきて、何もかも面白かったけれど、大爆笑の度合いで言うと、付け替えられないソケットと見つからないキーホルダーを超えるものはなかった。そんな天然エピソードそのものに笑っちゃうだけでなく、周りから天然を指摘されても、周りと一緒に自分で自分の天然を笑っている姿も印象的だった。どこまでも自分のある方だなと感じる。

 

のんちゃん

おふざけいたずら大好きっ子で、個人的にはエイトの最年少・大倉さんに抱く感情にも似たものがあったけれど、天性の末っ子。一般人に近い感覚があるような、だるいとか大変とかそういう部分も変に隠さず曝け出しているから人間味に溢れていて、彼がすぐ心折れたり卒なくこなさない分、子どもと向き合う等身大の葛藤に共感させてもらえた気がする。

でも、どんなにふざけたメンバーとの談笑中でも、ゲストの子どもを絶対に「お子さん」と呼ぶ、他人への敬意や仕事への真摯さに終始キュンキュンしていた。ここだけ見ると、仕事に真摯なことは当たり前だろという感じなのだけれど、小瀧くんはすでに私の中で国民の弟みたいなイメージになったので、自由奔放に楽しそうにしている中で「決めるところは決める」瞬間を見られると、なんとも言えず嬉しい気持ちになってしまう。パパジャニ見始めて3日目くらいで迎えたなにわの日の配信では、小瀧さんがステージに立って歌って踊ってる事実だけで心が震えた。しかも「証拠」でかっこいいがなりボーカルで決めたり高身長で見応えあるダンスパフォーマンスをしてるのを見たりした日には、自然と涙が出てしまった。

 

やるときはやるけど、そうじゃないときは飾らないでいるかっこいいお兄さん。夏キャンプ回の女の子たちが、バドミントンをしていくうちに小瀧さんのことパパというより惚れていってしまっている感じもあって、見ていて微笑ましかったし、女の子たちに共感しかなかった。

 

ジャニーズWEST

総じて、個人的には圧倒的に箱推ししたいグループだなと思った。7人集まってああでもないこうでもないと互いを認め合いながらゲラゲラ笑いながら進めている様子は、本当にずーっと見ていられる。(現に、paravi版すでに2周目に突入している。無料期間でやめようかと思ってたけど全然そうは行かなくなった。)

軽井沢冬キャンプの行きの車の中で、藤井さんがみんなに出した心理テストが印象的だった。うっかり「桐山さんをいらないと思っている」というテスト結果を導いてしまったものの、それを悪ノリでいじるでもなく、みんなで穏やかに朗らかに笑いながら「これは心理テストが間違ってる」という方向に話を進めたのが目から鱗だった。こんなにメンバー愛が深く、団結し、しかもとにかく平和な空気が流れているのに、1人1人のキャラもしっかり立っているグループの現場があったのかと、衝撃の出会いだった。

 

あと個人的には、お酒を潔く飲むアイドルは好きなので、冬キャンプ回で小瀧さんだけでなく寒さに勝てなかった中間さんまでもおもむろに白ワインを飲み出すシーンはツボだった。番組のことはほぼ調べてないくせにメンバーのお酒事情だけはざっくり調べたところ、皆さん嗜まれるようで、良き良きと思っている。

 

 

 

 

140字じゃまとまらないと思って書き出したけど、そもそも47本も一気に見たしあまりにお一人お一人について思ったことが多過ぎて、気づけば7,000字超。道理でツイッターに書きづらかったわけだ。エイトの時も、バラエティから入って最初の円盤がライブ映像だったので、WESTさんも最初の1枚は去年のライブBDに決めて、頼んでみた。ライブを見たら、歌ダンスはもちろん、シンメとかユニットとかそういう概念も分かってくると思うので、今から見るのが楽しみだし、その上でもう一度paraviを見直したら恐ろしいほど見え方がまた変わりそう。

 

ありきたりな感想なのか、見当違いな感想になっているのか分からないけど、とにもかくにも、パパジャニもジャニーズWESTもとってもとっても愛おしくなってしまった。ひょんなことから漂着した沼だったけど、出会ってしまった以上はこれからもありがたく楽しませて頂きたいなと思っている。paraviに、推しに感謝。

 

Twitter

@mamemeeepan

 

関ジャム「奄美の音楽」回の感想

関ジャムの「奄美の音楽」回を見た。

 

www.tv-asahi.co.jp

 

エイターだし、関ジャニ∞さんのセッションする姿とか軽妙にトークする姿とかそういうのも大好きだけど、そういうのもよかったけど、それ以上にこの回は特に、内容が示唆に富んでいるというか、ただ音楽っていいよねって言うだけの内容じゃなくて、刺激をたくさん受けた。大学で、伝統についていろいろ研究していたのだけど、論文を書き直したいくらい。和楽器を幼少の時から続けていて、ずっと感じてきたコンプレックスもなんなら解消されたくらい。それくらい番組に感銘を受けた。

 

理由はいろいろあるけれど、何よりも第一に、奄美大島の音楽のアカデミックな背景を知れたこと。

ゲストには、島ご出身のシンガー、元ちとせさんと城南海さん。奄美大島では、集落ごとにそれぞれの曲が存在すること、その曲は宴の席でみんなで楽しみながら歌うということ、薩摩藩の侵略の歴史の中で曲が哀愁を帯びていったこと、グィンという独特のこぶしのようなものが奄美の歌を奄美の歌たらしめていること、沖縄の音楽とは楽器も音楽理論上でも異なることなど、かなり体系的に語っておられた。大前提として、このお話がとっても貴重だと思う。私はいわゆる新興住宅地みたいなところで生まれ育ったので、お祭りとかお囃子とかはあったけど、奄美大島のように日常的に生活に根付いた郷土芸能にゆかりがない。でも、おそらく、お二人の生活の中にはずっと郷土の音楽があったはずだからこそ、その存在に違和感を感じることはなかったんじゃないかと思う。いくら島ご出身のシンガーさんだからといって、ここまで深く語られるのは、とても自覚的に、郷土芸能を大切に思って学ばれてきたからだろうと、なんとなく感じた。

 

さらに、その解説を、クラシック声楽家の彌勒忠史さんが、世界中でスタンダードになっているクラシックの技法、音楽理論においてどのような意味を持っているのかまで語ってくださったのも興味深かった。奄美大島の方に明らかに共通認識が存在するのに記譜することができないグィンという歌唱法や、拍がカウントできない長老の節回しなどを、奄美大島にあってこそ生まれた大切な財産であるという立ち位置でコメントなさっていたのが印象的だった。

日本の芸能の中で育まれてきた音楽は、楽譜に当てはめられないことが多いと感じている。節回しは互いの呼吸を合わせ間合いを重視するとか、楽器のピッチがドレミ通りに設定されていなかったりとか、そもそも伝承の仕方が口伝だったりとか、曖昧なところに美学があったりもする。その曖昧さは時に、楽譜を徹底的に再現することに価値を置くクラシック音楽を演奏される方には摩訶不思議だったり、不快だったりするのかもしれないと、実体験として思っている。それでも、クラシックの権威ある立場にある彌勒さんが、日本にある伝統芸能の技術に敬意を持ってらっしゃると分かったことは、なんだか自国の文化を誇っていんだなって思える救いにも感じた。

加えて、そんな特別な芸能であると学んだ上で、クラシック界から彌勒さん、関ジャニから安田さんが即興でシマ歌に参加するというシーンも目の当たりにして、磨かれた芸のぶつかり合いというのは、難しいことを何もかも飛び越えてコミュニケーションし出すし相乗効果を生み出してしまうという、もっと普遍的な何かをも見せつけられたような気もした。

 

 

日本の芸能は、曖昧さに美学がある。だからこそ、伝承していくのには難しさがある。長いことそう考えてきた。

最低限の型はあるにしても、演奏や再演にあたり、人と人が口で伝えていくわけだから何もかも全く同じとはいかず、またそうすることが必ずしも粋とはされない。時代に合わせ、やる人、見る人の面白い方へ少しずつチューニングされていく中で、評価されることもあれば、「こんなの伝統じゃない、下品だ」と言われることもある。変化していく余白が残されている面白さでもあり何よりそれこそが難しさ。長いことそう思ってきた。

でも、奄美大島ではシマ歌の歌詞を、最近集落で起きた出来事や、今の気持ちを替え歌して楽しんでいるということを番組で知って、それって歌う側も聞く側もめちゃくちゃ楽しいし楽しいほうがいいし変わっていくことって生きてる証じゃん、と急に吹っきれたように思い始めた。

趣味で和楽器を続けていると、時折「伝統を守ってくれてありがとう」と声をかけていただくことがある。私はただ趣味で楽しくて演奏していて、何かを守っていく正義感がどうしても足りていないので、いつもとっても後ろめたかった。でも、自分が良いと思う演奏をして、見てくださる方に良いと思ってもらえれば、結局は良いのだよなと思えた時に、急に呪縛から解かれたような思いがした。

 

畳み掛けるように、番組の締めとなるセッションコーナー。「ワダツミの木」を、元さん、城さん、安田さんのボーカル、演奏は欠席の大倉さんを除く関ジャニ∞全員で。この演奏が震えるほどよかった。曲の持つとびっきり悲哀な雰囲気が、奄美独特の発声によってギュッと切実になる。それに食らいつく安田さんのボーカル力。演奏全体のかなめになっている丸ちゃんのベース、そつなくも切なさを増させる村上さんのシンセサイザーの音色、しっかりとキマった横山さんのトランペット。何をとってもよかったし、奄美大島の歌声が、東京でジャニーズと混じり合っている事実自体にも、なんだか希望に感じられた。

先人に感謝の気持ちを忘れずにしながらも、もっともっと今まで以上に、自分が感じて表現したいことを、楽しんで表現しなくちゃという気持ちに突き動かされる。コロナでしばらく練習が飛んでしまってるけど、再開が楽しみだなと、セッションが終わる頃には自分でも驚くくらい本当に純粋な心持ちでテレビの前で涙を流していた。

 

こんなふうに刺激を与えてくれるテレビ番組ってとっても貴重だなと思う。いつもだけど、ありがとう関ジャム。結局その一言が言いたくて書きはじめたブログだった。次の放送も楽しみにしてます。

 

 

 

 

 

安田さんの「メガネ」に向き合う時間

私の推し安田さんが世界に寄り添ってくれたYouTube動画が公開された

ジャニーズの所属グループ横断企画、「Smile Up! Project」で今週公開された関ジャニ∞YouTube動画。流れ始めるのは、誰でもない大好きな安田さんが1人とうとうと語る様子。充実したFC限定動画の数々があるおかげで、こんなご時世でも週に1度は安田さんの声を聞けるネットラジオの時間があった。だから、いつもおしゃべりしてる安田さんの出番だ〜!と、勘違いも甚だしい不思議な気持ちで見つめていた。

 

安田さんの前振りと、「受け取ってみてください」という柔らかな声を受けて、2014年の甲子園テーマソングだった「オモイダマ」をメンバー5人がリモートで歌唱する様子が映し出される。それぞれが違う場所にありながら、白球を追う球児のように白シャツで揃えた5人が、祈るように力強く。憂うばかりじゃなしに、これからの未来をワクワクさせてくれるような、素敵な歌唱だった。 

 

歌が終わり、静かに安田さん1人のアングルに返ってくる。関ジャニ∞は家からのリモート収録がアイドルとは思えないくらい多いんじゃないかと思う。室内に響く、飼っているお魚さんたちの水槽がピチャピチャいう音にこちらが耳慣れてしまっているのも恐ろしい話だが、天井の高そうなお部屋に声を響かせながら、安田さんは語り出してくれた。

 

翌日の朝のニュースなどでもたくさん取り上げられていたけれど、彼の病気について。頭蓋骨の開頭手術によって腫瘍を取り出したことを、その時の傷痕を見せながら、そして声を震わせながら語ってくれた。自分だって後遺症に苦しみ少しも強くなれないでいる。しんどい時はしんどいことを受け止めて、一緒に未来に向かって歩みましょう。そんな風に語りかけてくれる安田さんは、自分の方が辛いと言うわけでもなく、はたまた辛い思いしてるからと言い訳するわけでも絶対なく。彼の言葉はいつだってしんどい人の心に寄り添ってくれるようで、痛みを分かち合ってくれるようで、押し付けがましいわけでも決してなく、慈愛に満ちたような声で、優しく世界に語りかけてくれていた。

 

メガネについて。安田さんから聞くことを避けていた言葉だったかもしれない

そんな中で、安田さんが一際言葉を詰まらせ涙声で伝えてくれた言葉があった。

この色付きのメガネをつけないとステージとかテレビとか、日常生活も無理なんで。

テレビや雑誌はもちろん、コンサート、舞台、メイキングに自宅リモート収録に至るまで、安田さんは色付きのメガネをいつもかけている。  もちろん、私もそれが脳腫瘍の後遺症の影響であることは知っていた。でも、この言葉を聞くと、私はぐっと胸が痛む。

 

私は、エイターになってまだ1年ちょっと。安田さんのことが気になり始めたのは、テレビ番組「関ジャニクロニクル」で2年くらい前に、「昼は鳥になりたい、夜は魚になりたい」と嬉々として語る姿を見た時だった。思ってもみなかった自由な発想、そしてなんという文学性…!なんとなく、ジャニーズってだけで煌びやかで自分には無縁な世界だと思っていたのに、その一言が心に勝手に土足で踏み入ってきて、それでいて言いようのない心地よさを覚えた。

 

 

そして、安田さんに落ちた決定的なもう1つの要因、それがメガネだった。

その時の彼はすでにメガネをかけてテレビに出演していて、当時はクリアな丸メガネ。元々メガネフェチな気があった私なので、本当のイケメンがかけるメガネのクオリティ高すぎる仕上がりに息をのんだ。雰囲気イケメンとかいうジャンルを殴りにかかりたいくらいの完成度。それを見て、ああ、私は安田担になったんだと悟った(自分次第でしかないけど)。

 

のちにそのメガネは、彼がやむをえずにかけていたものだと知るのだが、それから個人的にずっと葛藤している。

ご本人がかけるつもりもなかったメガネに無邪気にはしゃいだ申し訳なさ。メガネをもしかけてなかったら自分はヤスダーじゃなかったんじゃないかと思う怖さ。病気もメガネもないことを本人だけじゃない誰しもが望む中、「メガネ出」なんていう本来であれば不要な存在になってしまってる所在なさ。

 

ただ、コンサートに行ったり映像を見たりブログを読んだり、安田さんのパフォーマンスのすごさや思慮深さや広くて深い心に触れるたびに、あまりに力強く前に向かって生きてるから、そんなこと彼にとってどうでもいいし、きっかけはなんだって良いんだと何度も思い返してきた。でも、やっぱりこうやって、面と向かって(正確には面と向かってない。YouTube越し)涙ながらの声でメガネが必須になったことへの悲痛な思いを聞くと、自分は安田さんにちゃんと正面から向き合ってきたのか?楽しいことだけ吸い上げて、本当にオタクとして受け入れるべきことを避けてはいないか?その自問自答が再び始まって、モヤッとした思いと罪悪感が体の中で渦巻くように暴れ出していった。

 

「メガネ似合うからいいじゃん」とは言いたくない複雑なオタク心

その罪悪感とモヤモヤへの解として1つ言えるのは、「メガネ出のヤスダーを生み出したくらい、安田さんのビジュアル開発能力がすごい」ということ。

これは本当にそう。今までメガネかけてアイドル業してこなかった安田さんが、メガネありきで見た目を開発し続けているのは、彼の漲るような表現力があるからこそ。丸メガネに始まり、色付きレンズになってからは、モヒカンやツーブロック、毛先の色を遊ばせるワンレンボブ、スタイリングも肩ラインを落としたダボッとした印象の物を着こなしたり、拡張ピアスでいかつさを増させていたり。やるのは簡単で誰でもできることだけど、着こなしてファンをつけるまでするのは、安田さんのビジュアルのポテンシャルと表現力があってこそとしか言いようがない。

 

でも、オタクの心は複雑で、似合ってるしいいじゃんというのは、1つの意見として持ったとしても、ここを結論にしたくない気がどうしてもしてしまう。

 

だって、かけなくていいならかけたくないって本人が言ってるのだから。

 

それは当たり前のことで、安田さんはまず第一にアイドルだ。ステージで売るほどライトを浴びて、表情の機微で1度に何万人だって沸かせる、スーパーアイドル。メガネがない方がいいに決まってる。そんなこと、はっきり言ってるだけで辛くなってくる。なぜ、安田さんが……。ってこちらは思うのに、ご本人は「病気にならせていただいたからこそ、わかる痛みが増えた」なんて語るから、自分のちっぽけさにさらに泣きたくなってしまう。なんて素敵な方を推すことができてるんだ私の現世。

冒頭のYouTubeじゃないけど、しんどいことをしんどいとしっかり受け止めて、それでも前に進もうとしている安田さんが目一杯に詰まったような、尊い言葉遣いだなと思うばかりだ。

 

そもそも安田さんにとってビジュアルとは?アイドル像を凌駕するその存在

そんな風に思考を巡らせていて1つ気づいたことがある。安田さんの好きなところってなんだったんだっけ。安田さんは存在が哲学なので、それを語り出して語り切るのはなかなか難しく今回は割愛するけれど、何かってとにかく哲学なところが私にとって安田さんの一番好きなところだ。

パッと思いつくことで言えば、歌声、ワードセンス、ひたすらひたむきに表現・芸能をしているところ、リモートしてる自宅の画面にバスキアミニオンとツノような何かといったとにかくカオスな様子が見切れるところ、キッチンバサミでワンレンボブをベリーショートになるまで髪の毛切り落としちゃうところ、今伝えるべき想いを一生懸命に考えて伝えてくれるところ・・・

 

上げ始めたらとめどないからもうやめるけど、個人的な感覚として、言葉を選ばずに言えば、ビジュアルは副次的だなと思うことに気がつく(もちろん大前提として、顔大好きなのだけど)。安田さんを好きになったきっかけも、どちらかと言えば世界全開の金言の数々が始まり。あとこれも、完全なるTwitterを通じた私調べだけど、メガネにかかわらず以前からビジュアル七変化を繰り返していた安田さんに対して「見た目がガラッと変わっても全部安田さん」「なぜか変わったようには思えない」「安田さんのしたいファッションをしてくれてることが幸せ」と語るヤスダーさんを見かけることが本当に多い気がしてる。

 

不思議だ。アイドルでありながら、どんなビジュアルであろうと安田さんは一様に愛されている。もしかしたら、私が安田さんのことしか知らないだけで、他のアイドルさんのオタク層もそれは同じなのかもしれないのだけど、どこか安田さんは今でも私の中のアイドル像を超えていく存在だなと思う。

 

だから、ある意味、メガネがあろうがなかろうが、私がオタクになるのは時間の問題だったかもしれないし、そんなタラレバ置いておいたとして今メガネをかけていようがいまいが、今の安田さんも過去の安田さんもなんならこれからの安田さんも、全部違和感なく好きだなあと思える。もしかしたら、それが全てで良いのかもしれない。

 

知って、向き合って、笑っていきましょう。

知らないって怖い。

僕はこれまで、どれだけの人をどれくらい傷つけてきたのだろう。

突然だけれどこれは、安田さんの言葉でもなんでもなくて、再放送中のドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」第2話で主人公の平匡さんが言っていた言葉。

 

9割人間性が決まると主張する本もあるくらい、見た目って分かりやすく人を認識できる材料だ。今回のYouTube投稿で、「安田さんのメガネいまいちって言ってごめんなさい、知りませんでした」と言ったコメントが多数ついていると話題になっていた。確かに、安田さんを知らないで、テレビでたまに見かけるだけの層だったら、イメチェンしたのかなあとしか認識できないのは無理もない(知らない人にもイメチェンしたんだと思われてしまうほどの出面の多さ、改めてすごいなと思う、というパンピーな感想を添えて…)。

 

私も、何も知らないで安田さんのメガネを無邪気に喜んだ。喜んだのは、あの時何も知らなかったからだ。その事実を受け止め、また病気の影響だと知って罪悪感を覚えたことに背を向ける気持ちが少しでもあったことを省みて、「知らないって怖い」という言葉を胸に刻みたいなと、ステイホームしながらドラマの再放送を見つめながら、思った。

 

いろんな人が支えてくれてるからです。だからこうやって覚悟を持って皆さんの前に立ってます 。

(…) 頑張るというか、楽しんでいきましょう。笑っていきましょう。

 

YouTube動画は安田さんのこんな言葉で締め括られる。いつも安田さんは、エイターに「笑っていきましょう」と語りかけてくれる。大病を患い、腰骨と背骨を折り、色付きメガネをかけてでも芸能界にアイドルとしてい続けてくれている安田さんが言うこの言葉は、果てしなく深く、優しい。彼の覚悟を無駄にしたくはないし、純粋に安田さんの活躍する姿が心の底から嬉しいから、これからも安田さんやエイトの届けてくれるエンタメをたくさん楽しんで、笑っていきたいなと思ったりする。

 

全然取り止めがないけど、YouTube見た日から感じていたザワザワがちょっとは晴れた気分。何かに言い訳するように書き出してみて、よかった。楽しんでいきましょう。おわり。

 

 

ずっと向き合えなかった十五祭を5ヶ月越しで振り返った結果、やっぱエイトが好きだった

ずーっと、苦しかった。

 

楽しい楽しい十五祭。ただでさえ、大倉さんが手塩にかけた周年お祭り演出だったのに、さらに私にとっては初めてのエイト(ひいてはジャニーズ)の現場。肉眼で覗き込み、そこにいると感じた時の感動。同じ空気を吸って、一緒に声だしたり盛り上がったりできる、いくら噛み締めても追いつかないくらいの幸福感。それに加えてビギナーズラックで良席を引き当てて、安田さんにファンサをもらったり、数名から視線をもらったりする事件も起きた*1

 

何を見ても何を聞いても感激が鳴り止まないド新規には、十五祭結局何がよかったのかが分からなくなってしまった。何がなんだか楽しすぎてどうしようなんて、この上ないほど幸せな悩みだった。無論、本当の問題はツアーが終わってから。急降下と急上昇を繰り返す日々が続き、別のベクトルでますます自分の感情が何が何だか分からなくなっていった。

同時に、十五祭を思い出して言語化することが日に日に怖くもなっていった。楽しかった思い出と今の状況を比べてへこまないか。現場で心動かされたものを思い出したら、傷をえぐることにならないか。自分でも自分の感情の引き金がどれなのか分からなくて、とにかくあの楽しかった時間を振り返るのが徐々に怖くなっていったのだ。

 

でも、亮ちゃんのツアーを目撃し、新体制エイトの47ツアーも始まり、忘れ歌も観劇して、「友よ」がリリースされ、わちゃわちゃと年末を乗り越え、そして1月のすばるくんの幕張を見にいったのが最終的なきっかけとなって(2019年9〜12月忙しかった!)、2020年2月ようやく十五祭を振り返って言語化したいと思うようになった。単純に、やっと少し、様々な出来事に心が追いついてきたんだと思う。無意識的に再生を避けていた十五祭の映像も、最近になってようやく気軽に繰り返し見れるようになった。

 

とっても前置きが長くなってしまったけれど、十五祭の映像を見ながら思ったことを、現場で自分が感じたことにもちゃんと向き合いながら、今更ながら言葉にして成仏してみようと思う。何が何だか分からないぐちゃっとした感情が少しでも整いますように…。

 

BoNとマスピの再構築で、恐ろしいくらい6人のエイトが完成していた

Black of Nightは、鬼才・安田さんが「今のグループに必要な曲を作った」と語ったことで有名だけれど、それはつまり、今となっては「7人体制のための曲」だったということ。それを分かっていて大倉さんはきっとあえてセットリストに入れたのだろうけど、1人減った悲しさと言うよりも、会場で見ていたときには、今この6人のエイトのための曲に完全に昇華されているような気がして、痛く感動していた。

複雑な振り付けでも、人数が減ったことよりも6人が一糸乱れず踊っていることに意識が行った。ユニゾンが中心の歌割りは、6人でカバーし合う力強さが響く。どっちが良かったと言うわけではなく、6人体制のパフォーマンスの完成形が1つできたのだなと思っていた。

 

続くMasterpieceは、何と言っても落ちサビパートを引き継いだ亮ちゃん。すばるくんとはまた違ったスター性のある彼の歌声だけが響いて、亮ちゃん1人を中心としたフォーメーションが今後増えていくのかなぁと、なんだか新しい希望のようなものを現場で感じたことを思い出す。

 

すでにエイトは5人なので、こんな話をしても虚しくなるだけかもしれないけれども…今十五祭全体を聞き返せば、確かに思っていた以上に亮ちゃんが引き継ぐ歌割りが少ないような気もしないでもないが、マスピはあえて一番グッと聞かせるところを亮ちゃんが引き継いだと思うと、やはりこれは6人体制のパフォーマンスの一つの完成形だったんじゃないかなと感じる。

 

エイトにおけるバンド、それは「必死」であること。

十五祭の映像を見てやっぱり一番気になったのは、亮ちゃんの表情。特に最初数曲は、どうしたって複雑な表情をしているように見えてしまう。

なんとも言えない表情を保ったままコンサートが終わってしまうのかと思った時に始まる、バンドのブロック。センターに立ち、もんじゃいビートの曲終わりのかき回しに参加すると、少し元気な亮ちゃんが顔を覗かせる。そのまま続くバンド曲、楽しそうであることもさることながら、髪振り乱してギターを奏でて「必死」なようにも見える。メンバーも会心の盛り上がりだったと度々発言している勝手に仕上がれで、アウトアクトに仕上げたAメロや、「丸山ぁ?」と言う亮ちゃんなりのコール(そしてそれに応じる丸ちゃんのスラップの安定感と渋み…)など、あの色気とNISHIKIDOな世界観、今でも現場で感じたことありありと覚えている。

 

バンドセットで、盛り上げたり、手を抜かず常に全力で楽器を演奏したりする姿勢は、亮ちゃんに限らずエイトの全員に言えると思っている。これってもしかして、すばるくんの残した大きな大きな遺産なんじゃないかとも思う。彼を支えたい一心で必死に楽器にしがみついた彼らに身についた、とにかく必死でバンドを作り上げると言う姿勢。亮ちゃんがどれだけ遠慮がちに映像収録を臨もうとしても、もう癖みたいなもので、ここだけは全力をいやでも出してしまうんじゃないか。私はここ数年のド新規だけど、グループが今日まで15年続いてきた強さを知った気がした。

 

安田さんが元気そうで良かった。本当に良かった。

やっぱり安田担*2としてはとにかくそこに尽きる。本当に良かった。

 

彼の回復を一番実感したのは、月曜から御めかしから始まる、赤い衣装のブロック。バクステでブリュレを踊る安田さんを双眼鏡で覗いては、身のこなしの軽さ、彼の本来持つ運動神経の高さに驚き、また安堵してつい泣いてしまった。肩落としでジャケットを着崩して縦横無尽にステージを踊り走る姿を見ると、帰ってきた男の強さと覚悟を見るようだったし、かと思えばRAGEでトロッコからステージへ降りる時にふわっと自転しながらジャンプして着地した様子を見て、空から舞い降りた妖精なのか?と思うほどの清らかさにも驚いた。そう、そんな、曲ごとに、シーンごとに、見せる表情を全く変えられてしまう、魅力がとても数えきれない安田さんにずっとずっと会いたかったんだ。

私は、安田さんが怪我をするかしないかくらいにちょうど沼に落ちてしまったので、そんな不完全な時期の彼に惹かれた自分は、安田さんにとって不要なファンのような、なんだか漠然と引け目を感じるような気持ちでいたのだけど、彼にはそんなことはどっちでもいいのかもしれないと言うことも、現場でなんとなく思った(これに関しては一から十までただの私の自意識過剰だと分かってはいるのだけれど…)。細かいことはさておき、見る人を魅了してやまない、爪先指先毛先まで身体中を目一杯使ってのエンターテイメントを届けてくれている安田さんがここにいる。そのことがとっても幸せだった。

 

一方で、十五祭の安田さんが元気だったと言うことと同じくらい、DVDで見たグレコンの安田さんがどれだけ大変な状況だったのかを思い知らされた。初めての現場で、エイトのコンサートではステージを端から端までえぐいほど使うと言うことが分かったからこそ、ドームで全く動かずそれでも懸命に1人アコギを携え届けてくれていた、わたし鏡。いろんなことがあって、本人たちもまだまだ先が見通せない中だっただろうけど、そんな時でも文字通り這ってでもエイター思いでいてくれていたことに、改めて感謝の念しかわかなかった。

 

同級生なんだ、僕たちは。ヤンマーよ永遠なれ

亮ちゃんが抜けることになってから、防衛本能で自分が一番忘れようとしていた感想がこれだったことに最近気づいた。十五祭の現場では、シンプルにヤンマーの魅力に打ちひしがれた。

 

言わずもがなの「アイスクリーム」。10周年ではビビッドカラーの色違い衣装をまとって可愛さ全開で披露したユニット曲を、15周年では全く違う様相で。お互いヒゲを携え、衣装は揃えずラフに、おまけに照れ隠しにマイクをコーン付きアイスではなく、スポンサーのチョコモナカジャンボとバニラモナカジャンボにしてくるいじらしさである。年齢と経験とともに深みを増した歌声で、息ぴったしにサイズ感もぴったしに愛くるしいアイドルソングを披露する。昨日今日じゃ絶対にこうはならないと思わせるヤンマーの運命的なつながりと、アイドルとしての誇りを感じて止まなかった。

 今となって見返すと、遠慮やら恥ずかしさやらで、澄まし顔でこの場を乗り切ろうとする亮ちゃん、そして彼を笑顔にしようとご機嫌をとる安田さん。そんな安田さんに照れちゃって結局ニコッとしてしまう亮ちゃん。「誰にも渡さない甘く冷たいアイスクリーム」、ツンデレな歌詞はヤンマーそのものだったんだと気付かされる。コンサート映像でアンコール後、全員がはけた後に優しく映し出される、この歌詞が書かれたステージ小道具の黒板を見て、エイトにヤンマーを失った悲しみではなく、そっと心の中にヤンマーの思い出がしまわれたような平和な気持ちになっていくのは、ヤンマーがヤンマーたる所以なんだろうと思う(平和と言いつつ、初見の時は大号泣して荒ぶったけど…)。

 

今となれば、マスピの亮ちゃんの歌う落ちサビに呼応するように歌う「俺の行く先はずっと君がいる」と言う安田さんのパートが、驚くほど穏やかな美声なことに気づく。こんなに激しいダンスナンバーの最高潮で、未来にずっと君がいると安田さんが優しく歌っていたのは、密かなメッセージだったのかなとなんとなく感じたりもする。ヤンマーよ、永遠なれ。

 

一度は絶望を見た「最低で最弱」コメントに、エイトのくれた幸せを見出した

後出しジャンケンするようで今更どうしようもない主張ではあるのだけど、大倉さんの最後の映像挨拶に、初めて見たとき私はさっと血の気が引いた。思い出さないようにしていたけれど、今でもはっきりとその感覚は思い出せる。もうこのグループ、あとはないんだと、直感的に思った。そう思った部分をあえて恣意的に抜き出すと…

僕たちが最低な時も最弱な時もずっと愛し続けてください、お願いします。

もし別々のタイミングであっても、たとえ違う場所にいても、いずれは綺麗な花を咲かせてくれるといいなと僕は思っています。

この2つ。近い将来に最低最弱な時がやってくる=その時、別々の場所にいる=でもずっと愛し続けていれば花は咲く、この三段論法で、ストレートに思ったことを言うならば、彼らはもうすぐ活動休止するんだと縁起でもないことを思い込んだ。エイトコールの時間中、遠くばかり見つめていて頭が真っ白だった絶望感は凄まじかった。

 

でも不思議だったのが、その後1個1個現場を重ねていくごとに、なぜかこの大倉さんの言葉がポジティブな意味合いにどんどん膨らんで行ったこと。メッセージは毎回一言一句違わないものが上映されるし、別に何の根拠も理論もなかったけれど、エイトには未来しかないような、不思議な感覚に陥っていった。でもこれが、エンターテイメントの力なんだと実感した。漠然とした不安を拭い去ってくれるくらい、楽しくて幸せなお祭りが目の前で行われていたから、知らないうちに心が上向いたんだと思う。「お前の悲しみ、しばいたる!」って言う歌詞が2018年にあったけれど、本当にエイトはショーを通じて悲しみをしばいてくれるんだなと実感した。

初見で絶望した感覚は間違っていたわけではなかったけれど、エイトには未来しかないと思い直した感覚もそれなりに間違ってなかったと思う。5人体制の盤石なエイトは、とんでもない忙しさの中、エイターが追いつけないほどの供給過多でエイターのための発信を日々してくれているし、別の道を選んだ2人も、芸能活動を自分なりのフィールドで続けてくれている。

 

Show must go on。恥ずかしながら、この素敵な言葉を知ったのは最近だけれど、幸せにあふれていて、ピュアで、邪念なく楽しめる芸能をエイトがこれからも届けてくれるんじゃないかと、今ならそんな希望を素直に抱ける。逆境をプラスに変えたエイトと、その種をまくような挨拶を届けてくれた大倉さんの聡さと、いろんなことに感謝していきたい。

 

重々しくない感想も本当はいっぱいある 

主に7人・6人・5人問題にばかり集中してしまって、至極重々しい感じになってしまったけれど、何が楽しいのか分からないくらい楽しかった十五祭である。重くない感想も公演直後、スマホのメモにたくさん残していた。

 

(米ドル〜)、近くにきた横さん白すぎて発光してた、一連のおしどりヨコヒナ夫婦、安田さんに恋しない方が無理、大倉さんのイケすぎる低音ボイスに黄色い声援じゃなくヒィってドン引きみたいな声が混じってた、安田さんの目のヤバさに泣いた、勝手に仕上がれの良さが!!!!!大渋滞!!!!!!、丸ちゃんはベースを持った瞬間から丸ちゃんじゃなくて丸山プロ、など、テンションまかせのトンチキなものばかりだけれど、いつかこれらについても整理するかもしれない(自分で書いておいてなんだけれども、しない人の言う言い方だなと思う)。

 

やっと、やっと、十五祭や亮ちゃんについて少しだけでも気持ちが整理できて、清々しい気分。ありがたすぎることに毎日追いつけないほどの供給があるもので、対処療法的に「後から考える」を数ヶ月続けてきたけれど、こうしてたまに考えを吐き出すと、いっそう前に進めそうな気持ちにもなるんだなあと思う。改めてここからのエイトの活動がとっても楽しみになった。(5600文字で綴った自己満足、完。)

 

*1:諸説あり。でも私がもらったと思ったのだから、もらったということで良いのである。

*2:まだまだド新規の自分に「担」など名乗るのはなかなかおこがましいと承知しているものの、嬉し恥ずかしながらも初めて自らをそう名乗ってみようと思う。

「忘れてもらえないの歌」滝野亘の不気味さについて思ったこと

乾いた高笑いが響く。

不気味とも言える笑い声は耳に張り付いて消えない。というか、剥がれないという感覚に近い。滝野が真っ直ぐにどこかを見つめる、もしくは何も見つめていないようにも見える表情で短く笑うと瞬時に暗転。「忘れてもらえないの歌」の幕は降りた。その世界に何もなかったかのように、無情なほどに簡単に滝野たちのいた世界が閉じられてしまい、涙が止まらなかった。辛さだけが体中を駆け巡る。

 


こんなに報われないことってあるんだろうか。先の大戦で何もかもを失った滝野や稲荷、良仲が、生きるために見つけた「進駐軍ダンスホールでのジャズ奏者」という仕事。音楽は今日を生きる金を稼ぐためにあったはずなのに、その中毒性にメンバーたちは侵されていく。しかし、バンドが大きくなればなるほど、メンバーの魂はすり減っていく。

 


「こんな音楽をやるはずじゃなかった」「憧れてた未来と違う」「どうせ私なんか…」

 


何度もぶつかり合い、空中分解しようとするメンバーをつなぎ止めるのは必ず滝野だった。その時絶対に彼は、笑うのだ。ラストシーンと同じように、いつだって高い声で、楽しそうに。そうしてすべてを飲みこみながら、自分の感情を隠すようにーー。

 


滝野のキャラは、最初からブレブレだった。金儲けだけして情のないやつかと思えば、「心に何か詰まってるだけマシさ!」と言ってみたり、音楽のための金だと言ってみたり、仲間のことなんて忘れたよと言いながら思い出のジャズバーを買い取って借金まみれになってみたり。クレバーなのか、ひょうきんなのか、情熱的なのか。観劇が進むにつれ、滝野のキャラが安定しないことに苛立つほどだった。笑い方も不気味で不快感すら覚える。滝野自身は何を思い、何をどうしたいのか?そう考え続けて迎えたのが、あのラストシーンだった。

 


結局滝野は、金のためにしがみついたジャズを一番最後まで手放せなくなってしまったのだ。それだけ音楽を愛し、バンドを愛した。音楽で金稼ぎではなく、自己実現をしたくなっていた。そう彼自身がはっきりと気がついたのが、きっとバンドメンバーが全員去っていった後なのだろう。だから、キャラがブレ続けていたのだ。

彼は愛と情熱ゆえに自分を殺し続け、大切な仲間にすら想いは理解されず、「才能があって頭も良いサイコパス」みたいな滝野像だけを立派に作り上げ、1人で終幕を迎えてしまう。器用だから不器用で、熱いから冷酷。音楽が始まる過程だけがいつも美しく、反対に結果はいつも残酷だ。

 


急に安田章大さん自身の話になるが、彼が言っていた、安田章大と滝野亘を切り離して考えるということは私にはどうにも無理だった。

彼がジャニーさんに「YOUは器用貧乏」と言われたことを前向きに捉え、歌ダンス演技その他すべてのエンターテインメントを頑張れたから今があるという、安田さんを語る上で欠かせないエピソードがある。今やグループきっての器用大富豪な彼を見るとほんと私生きててゴメンっ…と思ってしまうくらい安田さんという存在のすごみを感じずにいられないエピソードだ。

 


滝野も、金儲けのためだろうと何だろうと、器用だからジャズを始められた。器用だから、人を騙してでもバンドを組んで立つべきステージを獲得した。器用だから、バンドメンバーをかばった。器用だから、バンドという場所を守ろうとした。

しかし、不器用だから、守りたい、愛したい、奏でたいという想いは、関わった人間のうち、1人にだって伝わらなかった。唯一最後に伝えることのできたレディカモンテは、同じく音楽に身を滅ぼし、何もかもを覚えられなくなってしまった人間でしかなかった。

 


とっさに思い出すのは、倉橋のANNにゲスト出演したときの安田さんのトーク。「酔っ払いの千種さん」「トラ、生きてないヨォ〜!」「サメよりかは少し後ろにいる」などの金言の数々は、思うにリスナーやエイターに想いを伝えたいあまり、結論ではなくエピソードの端切れみたいな部分を一生懸命伝えすぎたゆえのこと。誰かへの優しさや愛情表現を発揮しようとすると、蛇足がすぎて蛇足した部分しか伝えなかったりする。滝野ほど不幸な話じゃ到底ないものの、器用と不器用、情熱と冷静みたいなものを秘めててこの振り幅に振り回される人生を送りたい…と思うばかりだ。(深く頷く音)

 


ここ2〜3年の安田さんのビジュアルや表現の変化にも、なにかを思わずにはいられない。大きな体調不安や、メンバーの脱退が彼の人生観を変えたことは、たくさんのインタビューで自ら語ってくれている。なんとなくあまり口にしたくないが、まるで滝野が生きるためにしがみついた音楽やバンドに生かされて、自分の生き方を見つけ出すストーリーと、どうしても重ねて見てしまう。

 


本人は、安田と滝野を重ねないでくれというものの、思えば重ねて観てしまうほどの好演であることをどうしても主張したい。安田さんが、今の彼しかできない表現を全身全霊で芝居し、観劇した私という1人の客にあまりにも届いたということ。変な意味抜きにして、それが事実以上の何事でもない。(しかしキャラはキャラと、このタイミングだからこそ言ってくれる彼の優しさである)

 


そして私は、滝野はこのあと幸せを再び感じられると信じたい。この物語、幸せな過程のあとにある不幸を描き続けるが、逆説的に言えば、また過程を作ることができれば幸せになれるんじゃないのか。続けていくことの意味みたいなのを問われた気がしてならない。(そういえば安田さんも、芸能界は長く続けることが大事って言葉を大切にしていると、こないだ言っていたっけ。)

金を儲けるだけが音楽じゃないし、スターダムにのし上がるだけが人生でもない。元来のバンド音楽の楽しさにたどり着き素直になれたであろう彼が、何か違う形で幸せを再び手に入れると切に信じたい。

 


ああ〜〜、すっきりした。自分にはまだまだなんの結論もないんだけれども、辛さの中にどうしても幸せを見出したくて、つらつら書き続けてしまった。あんなに笑い声が不気味に思えた滝野のファンになってしまったからなんだろうなあ。安田さん、滝野に気持ちも体力も持ってかれてるはず。改めて、くれぐれも健康に大千秋楽をむかえてください。

 


純粋と不純、優しさと冷血、器用と不器用、そして仲間と音楽にしがみついてしまったからこその孤独が詰まったラストシーンの滝野の笑い。むしろ頭にこびりつけてこっからもわたしも無骨に生き続けていきたい。無事に人生変えられた、安田さん舞台の初観劇だった。

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ジャニーズに無縁だったわたしが、関ジャニ∞のコンサートに現場入りするまでの道のり

あと2日。あと2日で初・生エイトをこの目で目撃する予定だ。関ジャニ∞の15周年ツアー「十五祭」の名古屋2日目公演。待ちに待ったその日がやってくる。

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初めてのお手製うちわ。せっかく行くならと見よう見まねで作ったが、のちに「ホログラム素材は照明に当たると演者の目に悪い」とネットで読み、安田さんを応援する態度としてなんたる不適切と憤慨し反省し修正をしたのも初々しい思い出にしたい。

 

正直、三十路を手前にしてジャニーズにハマるなんて、そんな予定全くなかった。学生時代には、スクールカースト上位のクラスメイトが「大阪レイニーブルース」や「無責任ヒーロー」を振り付きで歌っているのを横目に見ながら、ああ彼女らは華やかだなあなんて思うくらいだった。あの頃の自分には、はっきり言ってジャニーズは「関係のないもの」だった。

 

と、思っていたことを思い出しながら、今私は一生懸命に15年分の関ジャニ∞の楽曲を予習している。あの頃の私にこの様子を見せてあげたい。全く信じないだろうが。

 

鮮烈な出会い 「昼は鳥になりたい、夜は魚になりたい」ジャニーズって?

私が関ジャニ∞にハマったのはちょうど1年ちょっとくらい前、2018年の3月頃のことだった。

 

2017年末に、友達から「関ジャニクロニクル」という関ジャニ∞のバラエティ番組がだいぶ面白いと紹介を受けてからというもの、あまりにも秀逸な企画と、関ジャニメンバーの真摯な取り組みようにあれよあれよという間にのめり込み、貪るように映像を見ていた。「ウィーリックンラン アンド カムバックリーラン*1」状態だった。

 

毎週の放送日が、時間を経るごとに楽しみになっていった。ある日のことだった。

大好きだった企画「いきなりドッヂ」を見ていると、メンバーが若い頃の雑誌インタビュー記事を大人になった今読み上げるという罰ゲームをやっていた。そこでどうしても忘れられない言葉に出会った。

 

「昼は鳥になりたい 夜は魚になりたい

(今でもこれは)ブレてない。変わってないなあ。

 

 

なんだ、それ。

 

三島由紀夫か、はたまた芥川龍之介か。ちょっと危う目な文豪みたいなことを言うタレントが、ジャニーズにいたなんて。学生時代に、「華やかな世界」と思っていたそれとはちょっと違う感情を抱いた。正直よくわからない世界観を、臆することなく、かといって威張って誇るようなこともなく自然体で語るその声は、私のジャニーズタレントへのコンプレックスのようなものを一瞬で飛び越えて、何か特別なものを訴えかけてきた。

 

思わずテレビ画面に向かって刮目した。発言したのは、安田章大さんだった。その時、彼は黒い短めのストレートヘアに丸メガネを掛けていた。

 

どストライクだった。

 

もともと、丸メガネを着こなす男性にイケメン性を感じる性分ではあったが、元が良いと丸メガネの着こなしってここまでクオリティが上がるのか!と目からウロコ状態だった。

そこで初めて私は彼を認識した。もちろん、何度も番組は見ていたので顔も名前も知ってはいたのだが、はっきりと「不思議な世界観」「顔がいい」と認識をしたのは初めてだった。

 

思えば、この時から世界が始まったのだった。

それからと言うもの、これまでよりもちょっと幸せな日々が始まった。安田さんが番組に出るのが楽しみだからだ。次にどんな発言をするのか、どんな一面を見せてくれるのか。関ジャニってたくさんテレビ出てたんだなあ・・・と気づいた時でもあった。

 

しかし、あの日がやってきた。

 

彼がメガネを掛けていた理由を知った 

2018年4月15日。日曜の朝、柔らかい日差しが部屋に差し込んでいたのを思い出す。あの会見に、安田さんの姿はなかった。

 

大怪我を負っているという事実、彼が自分の言葉で何も発言することができなかった事実、何より関ジャニ∞が大きく大きく変わろうとしている事実、まだまだ新規*2とも言えないほどの私でも心が痛んだし、不安になったし、どうしたら良いのかわからなくなった。

 

そして、程なくして安田さんの病気のことが公表された。心の整理も何もつかないままだった。そこで、私が彼に刮目するきっかけとなったあのメガネ姿は、病気の影響だったことを知る。

 

スポットライトを浴びることを生業にするアイドルの目が、光に弱くなってしまった。多彩な表情で観衆を沸かせてきたジャニーズのトップアイドルが、メガネ必須になってしまった。

もちろん、後遺症だけではなく安田さんの病状が本当に心配だった。お願いだから無理をしないでほしいと願った。でも一方で、あの会見がなければ病気を公表するつもりがなかった安田さんのことも思うと、私レベルでさえこのことを知らされなければならないまでに追い込まれてしまっていた状況にも申し訳がなかった(もちろん、誰が悪いわけでもないのだろうが)。

 

彼が「仕方なく」装着していたメガネを無邪気に喜んでいた自分の心の奥底の方で、なんとも言えない罪悪感のようなものが芽生えていった。

 

安田さんをテレビで見ない日々がやってきた

2018年7月12日の「関ジャム」出演を最後に、安田さんがテレビ番組出演を控える日々がやってきた。

 

「お願いだからゆっくり休んでほしい」「体が満足に動くようになるまで公に姿を表さないで!」と願う自分の言葉とは裏腹に、毎日の時計の進み方が遅くなっていることに気がついた。

私は、たった数ヶ月しかテレビ番組を追っていなかったド新規のはずだ。そのたった数ヶ月の間、週に数回はテレビで新しい映像が当たり前のように供給される環境に慣れてしまっていた。なんて贅沢なことだったんだろう。改めて、ジャニーズタレントたちの働きぶり、そしてそこまで働くほどに注目を集めるスター性を知った。

 

テレビに出てほしくないのに、出てほしい。自分本位で勝手な願いは、ざらっとした苦虫のようで心に渦を巻いた。

 

課金、その向こうへーー 

そんな時、ジャニーズウェブで展開されている「関ジャニ戦隊∞レンジャー」の存在を知った。毎週木曜日、メンバー全員が更新する公式ブログ。月300円+税をお支払いすると、なんと全員分のブログの閲覧が可能になる。

 

え、タダじゃん?

 

6人全員が・・・?毎週更新してくれるのに・・・?タダじゃん?

それが最初の感想だった。

 

思えば、ここまでの私、関ジャニ∞が好きなだけで、一切課金をしていなかった。根はそれなりにオタクだ。好きなバンドには、CDにグッズにライブに割と簡単にお金を使う。ここで重要なのは、対価としての物ももちろん欲しいには欲しいのだが、お金を使う最終目的は物だけではないということ。そのバンドに成功してもらいたいから、活動に必要なお金を差し出したいという感情の方が強い。

その理論でいうと、ここまで応援して、体の健康まで願う推しができたのに、課金をしていないのはちょっとおかしい。無料でコンテンツだけ搾取しようとする泥棒同然の働きである。

 

しかし、相手はジャニーズ。私が学生時代からなんとなくコンプレックスを抱いてきた華やかな世界だ。お金を一銭でも支払えば、ファンであることを公式に認めたことになる気がしてならなかった(最も、私は公人ではないのだが)。だから意図的に課金を避けていた。

 

とはいえ、状況が状況だ。安田さんの最新の言葉が知りたくてたまらない。私は薄目を開けながらおっかなびっくり、ジャニーズウェブの会員となった。誰も気にしちゃいないのに、誰にもバレませんようにと心のどこかで願いながら。

 

私の陳腐な発想は、安田さんの感性に到底追いつけない。底なしの沼にたどり着いた

そこからは話が早かった。

一度課金さえしてしまえば、300円も3,000円も30,000円も、なんだか全然変わらないように思えた。手始めに過去のコンサート映像作品、おまけが充実している各種CD(なんで1,400円のCDに1時間のおまけ映像が付いてくるの?タダじゃん?)、出演映画の映像ソフト、テレビ誌、その他音楽雑誌、舞台雑誌ーー。

 

ド新規であることも手伝って、課金先には困らなかった。そして、課金をして情報を得れば得るだけ、安田さんの人柄や感性、生き様への感動が増していったのだ。

 

コンサートでは、1曲1曲どこも手を抜かずに世界に入り込み表情を作る。あまり聞いたことのないような複雑難解な自作曲の表現を、なんてことはない雰囲気でメンバーに課す。ギターのフレーズも独特だけどロングトーンやカッティングにとても味がある。ていうか歌唱力。ていうか顔面・・・!

といった具合に、遺憾無く才能を発揮させるステージパフォーマンスがあれば、一方でブログやインタビューの言葉は、極めて穏やかでいつだって慈愛に包まれていた。「ミニオンと喋れるようになりたい」「ばちぼこイカれたHappy Time」を始めとし、「カーテンの隙間から差し込む朝日*3」など、名言の数々は枚挙にいとまがない。

 

だが、中でも面を食らってしまったのは、やはり自身の病気やケガへの思いだった。

 

ジャニーズウェブのブログでは、積極的とも思えるくらい、自身のコンディションを発信してくれた。2018年秋〜冬にかけては、「いつか前の体に戻れるかも」といったニュアンスが続き、どう見ても調子が良いわけではなさそうだった。

 

しかし、そんな状況も、彼だけの感性で捉えているように思った。

 

ファンたちの思いまでもすくい上げて前へ進む

衝撃が走ったのは、安田さんが少しずつバラエティ番組にも復帰し始めた2018年末頃のこと。彼は、モヒカン姿になっていた。それも、青いサングラスを掛けて。治安!?という感想は、冗談でなく何百万人が思ったのだろう。でも、そのスタイルこそが、安田章大さんそのものなのではないかと思ったのだ。


ブログやインタビューでも、折に触れて自分の状況を、「生きられない人もいる中で、僕は運が良いから」といったニュアンスで話していた。「なぜ自分なんだ」と悔やんだって何もおかしくない。でも彼は、生かされていることへの感謝を心から述べるのである。

 

そして、その象徴がモヒカンだと思うのだ。両サイド、ツーブロックの刈り込みを上まで深くすることで、脳の手術をした時の傷跡ははっきりと見えるようになった。あえて隠さない。誇るかのように、傷跡がお目見えしたのだ。

運の良い自分が生かされていることへの感謝の表現として、これ以上ロックで、自分らしくて、かっこいいことがあって良いのだろうか。

 

さらには、青いサングラス。

私は、安田さんの病状を初めて知ったっときに、メガネ姿が素敵だと思った自分を僅かながらに申し訳なく思った。それは、彼が「仕方がなく」メガネを掛けていたと分かったからだ。でも、彼は仕方なく掛けてなんかいなかったのだと思う。新しい自分のビジュアル開発に、メガネをむしろ活用し出しているようにさえ見えたのだ。

 

「仕方がない」「申し訳ない」なんて思う私の感性は至って陳腐だった。また段々と、漠然とした申し訳なさの理由も自分の中ではっきりとし始めていた。私は、安田さんの病気がなかったら、メガネをかけていなかったら、こんな風にして充実したオタクライフを送っていなかったかもしれないのだ。テレビ番組の出演を控えなかったら、課金をしなかったかもしれない。体の状態を伝える彼の言葉を聞かなければ、ここまで沼落ちすることはなかったかもしれない。そう思うと、安田さんにとって決して幸せではない出来事によって導かれてしまったファン(私)の存在は、なんだか失礼なような、ないほうが良いような、そんな申し訳なさ。ざっとそんな思考回路である。

 

でも、当のご本人の方は、今この時の状況を全て巻き込んで、誰もが思いもしなかった新しい自分のあり方を見つけ出しているように見えた。私の小さな罪悪感さえ、むしろ推進力にして。(言ってしまえば、申し訳ないと思うことも、ヤカラなスタイルの解釈も、オタク特有、1から10まで私の脳内で繰り広げられた妄想でしかないのではあるが。)

 

周りが想像もしないようなアイディアを生み出す発想力と、そのアイディアを形にして新しい自分を表現しきってしまう才能。安田さんの生き様そのものに感動を覚えるようになるまで、そう時間はいらなかった。

 

そして、初めての現場入りへ

2018年12月31日。「紅白歌合戦」で、関ジャニ∞は6人体制初となったシングル「ここに」を披露した。

 

始まるんじゃない 始めるんだぜ!!

 

安田さんの同級生メンバーである錦戸亮くんと肩を組んで披露したこの力強いフレーズに、私は自然と涙が溢れた。 関ジャニ∞の壮絶な2018年と、そしてたくさんのエンターテイメントを与えてもらって自分も生かされたことへの感謝と。

 

明けて2019年1月1日。私の新年初仕事は、ジャニーズファミリークラブ(ファンクラブ)の入会だった。応援のために課金したいという気持ちと、ここまできたらコンサートを体感してみたい、ありがとうの気持ちを込めて直接叫んでみたいという気持ち、両方が募った結果だった。

 

明後日、そうしてようやく手に入れたチケット握りしめて*4、間もなく本当に会場入りする。

安田さんも、ブログやテレビを見る限りでは昨年よりはだいぶ体に自由が効くようになったようだ。この機会に感謝して、彼がステージに立ってくれる以上、全力で楽しみたい。

 

とはいえまだ、公演中・公演後に自分がどんな状態になってしまうのか全く想像がつかない(最も、今この時点で緊張による腹痛は突発的に感じている)。こんな気持ちになるのは、中学3年生のときに初めてライブというものを見にいったあの日以来。なんだかオタク人生がもう一度始まったような、初々しい気持ちでいっぱいだ。

  

 あと2日。全身全霊のドキドキとともに全力で生きて、その日を迎えたい。

 

 

*1:横山裕さんが、「we look around and come back later」を聞き取ったカタカナ語。番組の人気コーナー「英会話伝言ゲーム」で発され、次の伝言先のネイティブ・ハルカさんは見事に元の文章を聞き取った奇跡的な名シーンである。ここでは同じ動画を何度だって見尽くした、という意味。

*2:ジャニーズ界隈では、新参者ファンのことを「新規」と呼ぶそうだ。ことさらの新参者には「ド」がついて「ド新規」。私は永遠のド新規でいたいとなんとなく思っている。

*3:一富士二鷹三茄子のようなことを教えてください」という質問への回答。ずれてるとかずれてないとかの以前に、シンプルに天才だ。

*4:実際は電子チケットなので握りしめない。スマホと会員証、身分証を持っていけば入れるそうだ。