確かに動いた心をなかったことにしてしまうのは、自分の心に失礼だから。

ずっと向き合えなかった十五祭を5ヶ月越しで振り返った結果、やっぱエイトが好きだった

ずーっと、苦しかった。

 

楽しい楽しい十五祭。ただでさえ、大倉さんが手塩にかけた周年お祭り演出だったのに、さらに私にとっては初めてのエイト(ひいてはジャニーズ)の現場。肉眼で覗き込み、そこにいると感じた時の感動。同じ空気を吸って、一緒に声だしたり盛り上がったりできる、いくら噛み締めても追いつかないくらいの幸福感。それに加えてビギナーズラックで良席を引き当てて、安田さんにファンサをもらったり、数名から視線をもらったりする事件も起きた*1

 

何を見ても何を聞いても感激が鳴り止まないド新規には、十五祭結局何がよかったのかが分からなくなってしまった。何がなんだか楽しすぎてどうしようなんて、この上ないほど幸せな悩みだった。無論、本当の問題はツアーが終わってから。急降下と急上昇を繰り返す日々が続き、別のベクトルでますます自分の感情が何が何だか分からなくなっていった。

同時に、十五祭を思い出して言語化することが日に日に怖くもなっていった。楽しかった思い出と今の状況を比べてへこまないか。現場で心動かされたものを思い出したら、傷をえぐることにならないか。自分でも自分の感情の引き金がどれなのか分からなくて、とにかくあの楽しかった時間を振り返るのが徐々に怖くなっていったのだ。

 

でも、亮ちゃんのツアーを目撃し、新体制エイトの47ツアーも始まり、忘れ歌も観劇して、「友よ」がリリースされ、わちゃわちゃと年末を乗り越え、そして1月のすばるくんの幕張を見にいったのが最終的なきっかけとなって(2019年9〜12月忙しかった!)、2020年2月ようやく十五祭を振り返って言語化したいと思うようになった。単純に、やっと少し、様々な出来事に心が追いついてきたんだと思う。無意識的に再生を避けていた十五祭の映像も、最近になってようやく気軽に繰り返し見れるようになった。

 

とっても前置きが長くなってしまったけれど、十五祭の映像を見ながら思ったことを、現場で自分が感じたことにもちゃんと向き合いながら、今更ながら言葉にして成仏してみようと思う。何が何だか分からないぐちゃっとした感情が少しでも整いますように…。

 

BoNとマスピの再構築で、恐ろしいくらい6人のエイトが完成していた

Black of Nightは、鬼才・安田さんが「今のグループに必要な曲を作った」と語ったことで有名だけれど、それはつまり、今となっては「7人体制のための曲」だったということ。それを分かっていて大倉さんはきっとあえてセットリストに入れたのだろうけど、1人減った悲しさと言うよりも、会場で見ていたときには、今この6人のエイトのための曲に完全に昇華されているような気がして、痛く感動していた。

複雑な振り付けでも、人数が減ったことよりも6人が一糸乱れず踊っていることに意識が行った。ユニゾンが中心の歌割りは、6人でカバーし合う力強さが響く。どっちが良かったと言うわけではなく、6人体制のパフォーマンスの完成形が1つできたのだなと思っていた。

 

続くMasterpieceは、何と言っても落ちサビパートを引き継いだ亮ちゃん。すばるくんとはまた違ったスター性のある彼の歌声だけが響いて、亮ちゃん1人を中心としたフォーメーションが今後増えていくのかなぁと、なんだか新しい希望のようなものを現場で感じたことを思い出す。

 

すでにエイトは5人なので、こんな話をしても虚しくなるだけかもしれないけれども…今十五祭全体を聞き返せば、確かに思っていた以上に亮ちゃんが引き継ぐ歌割りが少ないような気もしないでもないが、マスピはあえて一番グッと聞かせるところを亮ちゃんが引き継いだと思うと、やはりこれは6人体制のパフォーマンスの一つの完成形だったんじゃないかなと感じる。

 

エイトにおけるバンド、それは「必死」であること。

十五祭の映像を見てやっぱり一番気になったのは、亮ちゃんの表情。特に最初数曲は、どうしたって複雑な表情をしているように見えてしまう。

なんとも言えない表情を保ったままコンサートが終わってしまうのかと思った時に始まる、バンドのブロック。センターに立ち、もんじゃいビートの曲終わりのかき回しに参加すると、少し元気な亮ちゃんが顔を覗かせる。そのまま続くバンド曲、楽しそうであることもさることながら、髪振り乱してギターを奏でて「必死」なようにも見える。メンバーも会心の盛り上がりだったと度々発言している勝手に仕上がれで、アウトアクトに仕上げたAメロや、「丸山ぁ?」と言う亮ちゃんなりのコール(そしてそれに応じる丸ちゃんのスラップの安定感と渋み…)など、あの色気とNISHIKIDOな世界観、今でも現場で感じたことありありと覚えている。

 

バンドセットで、盛り上げたり、手を抜かず常に全力で楽器を演奏したりする姿勢は、亮ちゃんに限らずエイトの全員に言えると思っている。これってもしかして、すばるくんの残した大きな大きな遺産なんじゃないかとも思う。彼を支えたい一心で必死に楽器にしがみついた彼らに身についた、とにかく必死でバンドを作り上げると言う姿勢。亮ちゃんがどれだけ遠慮がちに映像収録を臨もうとしても、もう癖みたいなもので、ここだけは全力をいやでも出してしまうんじゃないか。私はここ数年のド新規だけど、グループが今日まで15年続いてきた強さを知った気がした。

 

安田さんが元気そうで良かった。本当に良かった。

やっぱり安田担*2としてはとにかくそこに尽きる。本当に良かった。

 

彼の回復を一番実感したのは、月曜から御めかしから始まる、赤い衣装のブロック。バクステでブリュレを踊る安田さんを双眼鏡で覗いては、身のこなしの軽さ、彼の本来持つ運動神経の高さに驚き、また安堵してつい泣いてしまった。肩落としでジャケットを着崩して縦横無尽にステージを踊り走る姿を見ると、帰ってきた男の強さと覚悟を見るようだったし、かと思えばRAGEでトロッコからステージへ降りる時にふわっと自転しながらジャンプして着地した様子を見て、空から舞い降りた妖精なのか?と思うほどの清らかさにも驚いた。そう、そんな、曲ごとに、シーンごとに、見せる表情を全く変えられてしまう、魅力がとても数えきれない安田さんにずっとずっと会いたかったんだ。

私は、安田さんが怪我をするかしないかくらいにちょうど沼に落ちてしまったので、そんな不完全な時期の彼に惹かれた自分は、安田さんにとって不要なファンのような、なんだか漠然と引け目を感じるような気持ちでいたのだけど、彼にはそんなことはどっちでもいいのかもしれないと言うことも、現場でなんとなく思った(これに関しては一から十までただの私の自意識過剰だと分かってはいるのだけれど…)。細かいことはさておき、見る人を魅了してやまない、爪先指先毛先まで身体中を目一杯使ってのエンターテイメントを届けてくれている安田さんがここにいる。そのことがとっても幸せだった。

 

一方で、十五祭の安田さんが元気だったと言うことと同じくらい、DVDで見たグレコンの安田さんがどれだけ大変な状況だったのかを思い知らされた。初めての現場で、エイトのコンサートではステージを端から端までえぐいほど使うと言うことが分かったからこそ、ドームで全く動かずそれでも懸命に1人アコギを携え届けてくれていた、わたし鏡。いろんなことがあって、本人たちもまだまだ先が見通せない中だっただろうけど、そんな時でも文字通り這ってでもエイター思いでいてくれていたことに、改めて感謝の念しかわかなかった。

 

同級生なんだ、僕たちは。ヤンマーよ永遠なれ

亮ちゃんが抜けることになってから、防衛本能で自分が一番忘れようとしていた感想がこれだったことに最近気づいた。十五祭の現場では、シンプルにヤンマーの魅力に打ちひしがれた。

 

言わずもがなの「アイスクリーム」。10周年ではビビッドカラーの色違い衣装をまとって可愛さ全開で披露したユニット曲を、15周年では全く違う様相で。お互いヒゲを携え、衣装は揃えずラフに、おまけに照れ隠しにマイクをコーン付きアイスではなく、スポンサーのチョコモナカジャンボとバニラモナカジャンボにしてくるいじらしさである。年齢と経験とともに深みを増した歌声で、息ぴったしにサイズ感もぴったしに愛くるしいアイドルソングを披露する。昨日今日じゃ絶対にこうはならないと思わせるヤンマーの運命的なつながりと、アイドルとしての誇りを感じて止まなかった。

 今となって見返すと、遠慮やら恥ずかしさやらで、澄まし顔でこの場を乗り切ろうとする亮ちゃん、そして彼を笑顔にしようとご機嫌をとる安田さん。そんな安田さんに照れちゃって結局ニコッとしてしまう亮ちゃん。「誰にも渡さない甘く冷たいアイスクリーム」、ツンデレな歌詞はヤンマーそのものだったんだと気付かされる。コンサート映像でアンコール後、全員がはけた後に優しく映し出される、この歌詞が書かれたステージ小道具の黒板を見て、エイトにヤンマーを失った悲しみではなく、そっと心の中にヤンマーの思い出がしまわれたような平和な気持ちになっていくのは、ヤンマーがヤンマーたる所以なんだろうと思う(平和と言いつつ、初見の時は大号泣して荒ぶったけど…)。

 

今となれば、マスピの亮ちゃんの歌う落ちサビに呼応するように歌う「俺の行く先はずっと君がいる」と言う安田さんのパートが、驚くほど穏やかな美声なことに気づく。こんなに激しいダンスナンバーの最高潮で、未来にずっと君がいると安田さんが優しく歌っていたのは、密かなメッセージだったのかなとなんとなく感じたりもする。ヤンマーよ、永遠なれ。

 

一度は絶望を見た「最低で最弱」コメントに、エイトのくれた幸せを見出した

後出しジャンケンするようで今更どうしようもない主張ではあるのだけど、大倉さんの最後の映像挨拶に、初めて見たとき私はさっと血の気が引いた。思い出さないようにしていたけれど、今でもはっきりとその感覚は思い出せる。もうこのグループ、あとはないんだと、直感的に思った。そう思った部分をあえて恣意的に抜き出すと…

僕たちが最低な時も最弱な時もずっと愛し続けてください、お願いします。

もし別々のタイミングであっても、たとえ違う場所にいても、いずれは綺麗な花を咲かせてくれるといいなと僕は思っています。

この2つ。近い将来に最低最弱な時がやってくる=その時、別々の場所にいる=でもずっと愛し続けていれば花は咲く、この三段論法で、ストレートに思ったことを言うならば、彼らはもうすぐ活動休止するんだと縁起でもないことを思い込んだ。エイトコールの時間中、遠くばかり見つめていて頭が真っ白だった絶望感は凄まじかった。

 

でも不思議だったのが、その後1個1個現場を重ねていくごとに、なぜかこの大倉さんの言葉がポジティブな意味合いにどんどん膨らんで行ったこと。メッセージは毎回一言一句違わないものが上映されるし、別に何の根拠も理論もなかったけれど、エイトには未来しかないような、不思議な感覚に陥っていった。でもこれが、エンターテイメントの力なんだと実感した。漠然とした不安を拭い去ってくれるくらい、楽しくて幸せなお祭りが目の前で行われていたから、知らないうちに心が上向いたんだと思う。「お前の悲しみ、しばいたる!」って言う歌詞が2018年にあったけれど、本当にエイトはショーを通じて悲しみをしばいてくれるんだなと実感した。

初見で絶望した感覚は間違っていたわけではなかったけれど、エイトには未来しかないと思い直した感覚もそれなりに間違ってなかったと思う。5人体制の盤石なエイトは、とんでもない忙しさの中、エイターが追いつけないほどの供給過多でエイターのための発信を日々してくれているし、別の道を選んだ2人も、芸能活動を自分なりのフィールドで続けてくれている。

 

Show must go on。恥ずかしながら、この素敵な言葉を知ったのは最近だけれど、幸せにあふれていて、ピュアで、邪念なく楽しめる芸能をエイトがこれからも届けてくれるんじゃないかと、今ならそんな希望を素直に抱ける。逆境をプラスに変えたエイトと、その種をまくような挨拶を届けてくれた大倉さんの聡さと、いろんなことに感謝していきたい。

 

重々しくない感想も本当はいっぱいある 

主に7人・6人・5人問題にばかり集中してしまって、至極重々しい感じになってしまったけれど、何が楽しいのか分からないくらい楽しかった十五祭である。重くない感想も公演直後、スマホのメモにたくさん残していた。

 

(米ドル〜)、近くにきた横さん白すぎて発光してた、一連のおしどりヨコヒナ夫婦、安田さんに恋しない方が無理、大倉さんのイケすぎる低音ボイスに黄色い声援じゃなくヒィってドン引きみたいな声が混じってた、安田さんの目のヤバさに泣いた、勝手に仕上がれの良さが!!!!!大渋滞!!!!!!、丸ちゃんはベースを持った瞬間から丸ちゃんじゃなくて丸山プロ、など、テンションまかせのトンチキなものばかりだけれど、いつかこれらについても整理するかもしれない(自分で書いておいてなんだけれども、しない人の言う言い方だなと思う)。

 

やっと、やっと、十五祭や亮ちゃんについて少しだけでも気持ちが整理できて、清々しい気分。ありがたすぎることに毎日追いつけないほどの供給があるもので、対処療法的に「後から考える」を数ヶ月続けてきたけれど、こうしてたまに考えを吐き出すと、いっそう前に進めそうな気持ちにもなるんだなあと思う。改めてここからのエイトの活動がとっても楽しみになった。(5600文字で綴った自己満足、完。)

 

*1:諸説あり。でも私がもらったと思ったのだから、もらったということで良いのである。

*2:まだまだド新規の自分に「担」など名乗るのはなかなかおこがましいと承知しているものの、嬉し恥ずかしながらも初めて自らをそう名乗ってみようと思う。