確かに動いた心をなかったことにしてしまうのは、自分の心に失礼だから。

「エレファント・マン」を観劇した感想

2020年11月12日、舞台「エレファント・マン」ソワレを観劇してきました。

 

 

まず、この一言がうれしくてうれしくて。私がジャニーズWESTのファンクラブに入ったのは、この舞台のチケット先行が終わってからだったから、自分が行くことなんてこれっぽっちも思っていなかったところに、お友達のジャスミンさんからの連絡。イベントの規制緩和に伴って追加販売分チケットがまだ入手できると知った。正直、とっても悩んだ。

 

ライブやエンタメの現場が大好きでコロナ前には週1くらいで何かしらに通っていたけれど、今回はおよそ9ヶ月ぶり。人が集まる場所に行くことへの不安があったり、行っていいのかなと思ったのは正直な気持ち。

加えて、今回の作品が発表された時にざっと調べてみたところ、体が奇形と言われた「エレファント・マン」の壮絶な一生という難しい役どころを、特殊メイクとかなしの体当たりで小瀧くんが挑むと知り、小瀧くんにとってきっと大きなターニングポイントとなる予感にドキドキしたし、受け止め切れるかな…という不安もあった。

 

でも、行こうと思えたのは、大前提として当然ながら、少しでも行こうと思える環境に身が置かれていたから。コロナ禍にあって、いろんな事情で観劇を諦めた方もいると思う。でも私はありがたいことに、会場である「世田谷パブリックシアター」に比較的安全に向かえる環境がある中で、カンパニーの皆さんは全力で今しか見れないナマモノを届けてくれようとしてるのに、見逃すのはなんか違う気がした。自分の置かれている環境に心から感謝したいという気持ちもあって、観に行ってから無事に2週間以上経ったあとで、きちんと観劇の感想(内容は月並みだけど)を書き残しておきたいとも思った。

 

前書きが長くなってしまったけれど、ともかく、観劇をしてきました。

 

以下、演出などネタバレをします。

 

 

 

 

 

「魂」

「言葉が出ない」

 

幕間の休憩に走り書きしたメモにこの二言。

 

観劇した方たちが口々に、「あれは小瀧望ではない、ジョン・メリックだ」とツイッターでつぶやかれていたけれど、幕が開いて理由がすぐ分かった。BGMは最小限、舞台背景はナシ、あるのは表裏に二分割された周り舞台と、椅子やテーブルといったちょっとした小道具、特段色味があるわけでもない照明だけ。

そして何より度肝を抜かれたのが、奇形と言われた男を演じる小瀧くんの最初の登場シーンが、腰に布を巻いただけの半裸姿だったこと。逃げも隠れも盛ることもできない殺風景なステージに現れる、知ってはいたけど生で見るといっそう驚くくらいにスラっとスタイルが良くて、二枚目アイドルののんちゃん(私にとってはこれがこの目で初めて見たのんちゃん。なんて鮮烈な出会い)。

 

演じるエレファント・マンことジョン・メリックは、1800年代に実在した人物。骨が岩のように飛び出し、至る所にある腫瘍のせいで肉がただれたようで、体が極度に膨張・変形した、原因未解明の障害を持つ男性。その容姿から親に捨てられ、見せ物小屋に買われ、迫害され、壮絶な人生を送っていたという、事実をベースにした物語。(恥ずかしながら、不朽の名作を今回の舞台の話を聞くまで知らなかったので、出会えた機会に感謝!!)

 

頭は胴体ほどの太さがあり、胸や腹、右手の肉がただれ、肉の間からは異臭を放ち、顔も膨らみ息をするのがやっと、さらに幼少期に腰を患ったことで足が曲がり杖なしでは歩けない、ただ左手だけは世の女性も羨むほどの美しさ……。

 

医師であるトリーヴスが体の特徴を一つ読み上げるごとに、のんちゃんの体のパーツが一つずつメリックになっていく。特殊メイクもBGMも特別な照明も衣装さえもほぼないのに、でも確実に「奇形」と呼ばれたメリックの体が、のんちゃんの身体表現ひとつで出来上がっていった。セリフのない時も、ひしゃげる口から漏れる吐息が耳をつんざくように聞こえる。

その吐息に、見ているこちらがどうしようもなく辛くなる。苦しい。目を瞑りたくなる現実をつきつけられているような、到底1人の人間の身一つだけで作り上げられたとは思えないほどの、とんでもない閉塞感だった。

 

その閉塞感を、身体的に体験して共感させてもらったことが、ストーリーの理解をより深くしてくれた気がする。当時のイギリス人たちも持ったんじゃないかと思う未知のものに感じる恐怖心を、観てる人それぞれの心の中に再現してくれたというか、こういう3次元的な体験が、生の舞台の醍醐味だとはっきり思ったし、小瀧くんの演技に冒頭からいきなり心底吸い込まれいった。

 

身体表現だけでこれほどまでにシアター中に息苦しさを行き渡らせたのんちゃんは、確かにただただメリックにしか見えなかった。やっぱり舞台上にいたのは、のんちゃんではなくメリックだと私もそう感じた。

 

帰り際、吸い込まれるように買ったパンフレットには、戯曲原作者のこの言葉があった。

 

メリックの役を演じる者は、不自然なねじれた格好を長時間続けることで生じる問題について、医者の意見を聞いてほしい。

 

たしかに、上半身は右側に傾け猫背で、脚は内股で引き摺るように歩き、3時間の公演をマチソワ2本合わせたら1日6時間。とんでもない体への負担だと思う。体に不調を起こすことなく稽古の期間を含め千秋楽まで上演されたことが奇跡のようにも感じるし、日頃から筋トレに凝って体のことを気遣って過ごしていた小瀧くんなので、自分の好きなことを仕事にめいっぱい活かしてる現場を見れたようでもあって、そういう意味でもなんだかジーンとくるものがあった。

 

 

そんな前提があってこそ、メリックというキャラクターへの感情移入というか、没入感がすごかった。

登場人物たちがみなメリックを自分に似ていると口を揃えて言ったように、私も観劇中は、メリックという鏡を通じて自分の弱点をついつい省みてしまったりした。ねじ曲がった外見と、あまりにもまっすぐでピュアな内面とのギャップに見事に魅せられて、当時の英国貴婦人たちもこんな気持ちでメリックに会いに行っていたのかな、と感じることができて、会ったことも見たこともない100年以上前の人たちになんだかシンパシーする時間。

 

そうして出会う人たちの心を開いていったメリックが、徐々に上流階級にも「友達」を増やすようになり「普通の人間」に近づいていく一方で、体の変形が進んでいることで先が長くないと分かっていたトリーヴスの葛藤の描かれ方が壮絶だった。

その一つ、この舞台を語る上で絶対避けられないくらいの名シーンが、壮絶な心の荒波を表すようにトリーヴスが見た夢を描いたシーン。メリックは体をピンと伸ばし、トリーヴスと立場が逆転。冒頭でトリーヴスがメリックの体の状態を読み上げたのと同じように、今度はメリックがよく通る声で近代人にはびこる「病」を読み上げていったのだけど、もう本当にこれがすごかった……。のんちゃんが1秒前まで演じていたメリックと180度何もかも違う「普通の人間」として突然舞台に現れ、凛として太く通る声と、手足がスラっと長いスタイルの良さを最大限に活かした圧倒的に存在感のある佇まいを遺憾なく発揮していて、会場中のすべての空気が張り詰めてしまうくらいの緊張感が一気に漂って、あまりのギャップとパワーある演技に思わず泣いてしまった。ストーリーの重要な転換点でもあったけれど、それ以上にあんまりにものんちゃんの表現がど迫力すぎて。1つの舞台で、これだけの振り幅の演技をされるなんて、もう小瀧くんのお芝居からすっかり目が離せなくなってしまった!知ってはいたはずだけど若干24歳という年齢がなおのことビックリで、5年後10年後ももっと先も、これからののんちゃんの活躍が心から楽しみ。いろんな役どころを見せてもらえる機会があったらいいなと思う。

 

 

そして、トリーヴスが葛藤を抱え込むことになるきっかけにはいつも、ピュアで好奇心旺盛なメリックの姿があった。

 

「普通になるっていうのは死ぬことなのかな」

「慈悲深いことがこんなに残酷なら、じゃあ正義の為にはどんなことをするんです?」

 

問いかけの数々は、何度も胸に刺さった。死に向かって生きて、慈悲をふりかざすことが人生の意味なのか?生きる価値とは何なのか?全く答えが出ないというか、普段考えることを無意識的にやめていることばっかり、ピンポイントに短い言葉で仕留められたようなセリフが並んで、舞台を見つめながら何度も何度も逡巡していた。考えすぎて、幕が降りる頃には頭痛がするくらい考えさせられるセリフの数々だった。

でも、時間をおいて思うのは、私が生きる意味なんていうことをグチャグチャ考え込んでしまったことそれ自体が、産業革命を迎えていた当時のイギリス社会へのアンチテーゼなのかな、ということ。

 

人々が幸せになるために、便利な工業化社会がやってきた19世紀のイギリス。でも実態には、幸せばかりが増えるわけではなく、高度な成長に追いつくために働き過ぎて心身をすり減らす人があり、流行していたコルセットで体を不必要に締め付けて身を滅ぼす者がいて、突然得たものも大きければ、突然失うことになってしまった物も多かった時代だろうと、トリーヴスの独白シーンからも思わされた。

大きく価値観が揺れ動き、幸せの意味がぶれ続けただろう日々にあっても、メリックの「普通の人間になりたい」という想いや、芸術を愛する心はいつだってピュアでただただまっすぐだった。メリックは「普通の人間」になるという明確な幸せに向かって、一歩ずつ丁寧に噛み締めながら歩んでいたように受け取れた。そうでありながら、トリーヴスやケンダル夫人、ゴム理事長などメリックを取り巻く人たちはみんな、メリックにとって、もしくは自分にとっての幸せが何かを考え過ぎてしまったのかもしれない。

幸せは本当はシンプル。毎日生きて、今自分が幸せと思えることが大切なのに、メリックが純粋な心で投げかけた問いを考え込む私は、当時メリックを取り巻いた人々と同じ。奇しくも、100年以上も前から近現代人が同じような病にかかり続けていると実感させられた気分だった。こんな時代だし、自分の心の中の尺度で幸せを大切にするって難しい時かもしれないけれど、たくさんの簡潔で難しい問いが重ねられるごとに、その重みを実感するばかりだった。

 

そんなメリックにとっての幸せを象徴するようなシーンが、クライマックスにあたる彼の死だった。トリーヴスが、メリックへの葛藤を抱えきれなくなった頃に訪れるこのシーンだけれど、頭が大きく重すぎるあまり人生で一度も横になって寝たことのなかったメリックが、初めて「普通の人」と同じようにベッドに横たわって眠り、そのまま大きな体に内臓が圧迫されて終わりを迎える。あんまり近い席で見ていたわけではないけれど、のんちゃんの表現するメリックは、苦しみや不幸を乗り越えた穏やかな幸せだったように感じている。だって、「普通の人」がすることをやって命尽きたのだから。この死に目にトリーヴスが立ち会ったわけではないことが、残された人たちの心にそれぞれの解釈の事実を残すことになるのだろうけど、トリーヴスに関しては、メリックは幸せだったと心から思える日が来るのか来ないのか。来たらいいなと思う。

 

 

まとめる気もなく長々と思ったことを書き連ねてしまったけれど、とにかくとにかく、小瀧くんやカンパニーの皆さんが見せてくださった世界は、体で感じる大気まで特別で尊くて、舞台の醍醐味をひたすら感じさせてもらっていた。

 

木場勝己さん演じる理事長の存在感、近藤公園さん演じるトリーヴスの徐々に闇を帯びていくゾクゾク感、そしてオーラまで美しい高岡早紀さんのケンダル夫人などなど、たくさんのキャラクターに出会えたかと思ったらキャストは9人だけ!小瀧くん以外全員が複数の役どころをこなされていたそう。馴染みすぎて、気付けずにあとからパンフレットを読んでたまげてしまった…久保田磨希さんの役、あの大風呂敷のナースに皇太子妃にどんぐり頭…!全部印象的で個性的で、久保田さんじゃないようでどれも言われてみると久保田さんの強烈な存在感で、あとから配役をまじまじ見て感動がどんどん増していった。

パンフのインタビューでもあったけれど、のんちゃんは今回座長とは言えベテランさんたちの中に混ざる最年少。とにかくひたむきに真面目に稽古するのんちゃんを、付かず離れずカンパニーのみなさんでサポートされていた雰囲気がひしひしと伝わってきて、のんちゃんもそれに応えるように大先輩たちの胸を借りてメリックという人物像に思いっきり飛び込んだ賜物の舞台だったのだなあと、ほんとに感心してしまうばかりだった。舞台って、人が作るナマモノの現場って、尊い

 

 

 

つい先日ジャニーズWESTのファンになってから、のんちゃんのことは親しみ込めてのんちゃんって呼んでいたけど、今回この舞台で覚悟とやりきった魂を目撃してしまった今では、尊敬を込めて小瀧さんと呼ぶことが多くなった。文章中では、いろいろ心のバランスをとろうとして小瀧「くん」ってジャニーズの後輩タレントにでもなったような呼び方になってしまってておかしいなと感じてはいるけど、今感じてる熱量はせっかくだからそのままにしておこうと思う。

 

3回あったカーテンコール、3度目の登場で、まっすぐ通るきれいな生声で発されたのんちゃんの「ありがとうございました」には、最後の最後に再び泣かされてしまった。WESTでいるビッグベイビーで聡いのんちゃんも素敵だけど、あんまりにも仕事に真摯で一途な瞬間に出会えて、振り幅なんて言葉じゃ足りないけど、芸達者な部分だけじゃなく、人間的魅力をたくさん知れた気がする。

 

のんちゃん、カンパニーのみなさん、配信まで全公演の完走おめでとうございました。奇跡のような時間に触れさせてもらえて感謝しかないけれど、次の現場も楽しみに待ってます。