確かに動いた心をなかったことにしてしまうのは、自分の心に失礼だから。

「忘れてもらえないの歌」滝野亘の不気味さについて思ったこと

乾いた高笑いが響く。

不気味とも言える笑い声は耳に張り付いて消えない。というか、剥がれないという感覚に近い。滝野が真っ直ぐにどこかを見つめる、もしくは何も見つめていないようにも見える表情で短く笑うと瞬時に暗転。「忘れてもらえないの歌」の幕は降りた。その世界に何もなかったかのように、無情なほどに簡単に滝野たちのいた世界が閉じられてしまい、涙が止まらなかった。辛さだけが体中を駆け巡る。

 


こんなに報われないことってあるんだろうか。先の大戦で何もかもを失った滝野や稲荷、良仲が、生きるために見つけた「進駐軍ダンスホールでのジャズ奏者」という仕事。音楽は今日を生きる金を稼ぐためにあったはずなのに、その中毒性にメンバーたちは侵されていく。しかし、バンドが大きくなればなるほど、メンバーの魂はすり減っていく。

 


「こんな音楽をやるはずじゃなかった」「憧れてた未来と違う」「どうせ私なんか…」

 


何度もぶつかり合い、空中分解しようとするメンバーをつなぎ止めるのは必ず滝野だった。その時絶対に彼は、笑うのだ。ラストシーンと同じように、いつだって高い声で、楽しそうに。そうしてすべてを飲みこみながら、自分の感情を隠すようにーー。

 


滝野のキャラは、最初からブレブレだった。金儲けだけして情のないやつかと思えば、「心に何か詰まってるだけマシさ!」と言ってみたり、音楽のための金だと言ってみたり、仲間のことなんて忘れたよと言いながら思い出のジャズバーを買い取って借金まみれになってみたり。クレバーなのか、ひょうきんなのか、情熱的なのか。観劇が進むにつれ、滝野のキャラが安定しないことに苛立つほどだった。笑い方も不気味で不快感すら覚える。滝野自身は何を思い、何をどうしたいのか?そう考え続けて迎えたのが、あのラストシーンだった。

 


結局滝野は、金のためにしがみついたジャズを一番最後まで手放せなくなってしまったのだ。それだけ音楽を愛し、バンドを愛した。音楽で金稼ぎではなく、自己実現をしたくなっていた。そう彼自身がはっきりと気がついたのが、きっとバンドメンバーが全員去っていった後なのだろう。だから、キャラがブレ続けていたのだ。

彼は愛と情熱ゆえに自分を殺し続け、大切な仲間にすら想いは理解されず、「才能があって頭も良いサイコパス」みたいな滝野像だけを立派に作り上げ、1人で終幕を迎えてしまう。器用だから不器用で、熱いから冷酷。音楽が始まる過程だけがいつも美しく、反対に結果はいつも残酷だ。

 


急に安田章大さん自身の話になるが、彼が言っていた、安田章大と滝野亘を切り離して考えるということは私にはどうにも無理だった。

彼がジャニーさんに「YOUは器用貧乏」と言われたことを前向きに捉え、歌ダンス演技その他すべてのエンターテインメントを頑張れたから今があるという、安田さんを語る上で欠かせないエピソードがある。今やグループきっての器用大富豪な彼を見るとほんと私生きててゴメンっ…と思ってしまうくらい安田さんという存在のすごみを感じずにいられないエピソードだ。

 


滝野も、金儲けのためだろうと何だろうと、器用だからジャズを始められた。器用だから、人を騙してでもバンドを組んで立つべきステージを獲得した。器用だから、バンドメンバーをかばった。器用だから、バンドという場所を守ろうとした。

しかし、不器用だから、守りたい、愛したい、奏でたいという想いは、関わった人間のうち、1人にだって伝わらなかった。唯一最後に伝えることのできたレディカモンテは、同じく音楽に身を滅ぼし、何もかもを覚えられなくなってしまった人間でしかなかった。

 


とっさに思い出すのは、倉橋のANNにゲスト出演したときの安田さんのトーク。「酔っ払いの千種さん」「トラ、生きてないヨォ〜!」「サメよりかは少し後ろにいる」などの金言の数々は、思うにリスナーやエイターに想いを伝えたいあまり、結論ではなくエピソードの端切れみたいな部分を一生懸命伝えすぎたゆえのこと。誰かへの優しさや愛情表現を発揮しようとすると、蛇足がすぎて蛇足した部分しか伝えなかったりする。滝野ほど不幸な話じゃ到底ないものの、器用と不器用、情熱と冷静みたいなものを秘めててこの振り幅に振り回される人生を送りたい…と思うばかりだ。(深く頷く音)

 


ここ2〜3年の安田さんのビジュアルや表現の変化にも、なにかを思わずにはいられない。大きな体調不安や、メンバーの脱退が彼の人生観を変えたことは、たくさんのインタビューで自ら語ってくれている。なんとなくあまり口にしたくないが、まるで滝野が生きるためにしがみついた音楽やバンドに生かされて、自分の生き方を見つけ出すストーリーと、どうしても重ねて見てしまう。

 


本人は、安田と滝野を重ねないでくれというものの、思えば重ねて観てしまうほどの好演であることをどうしても主張したい。安田さんが、今の彼しかできない表現を全身全霊で芝居し、観劇した私という1人の客にあまりにも届いたということ。変な意味抜きにして、それが事実以上の何事でもない。(しかしキャラはキャラと、このタイミングだからこそ言ってくれる彼の優しさである)

 


そして私は、滝野はこのあと幸せを再び感じられると信じたい。この物語、幸せな過程のあとにある不幸を描き続けるが、逆説的に言えば、また過程を作ることができれば幸せになれるんじゃないのか。続けていくことの意味みたいなのを問われた気がしてならない。(そういえば安田さんも、芸能界は長く続けることが大事って言葉を大切にしていると、こないだ言っていたっけ。)

金を儲けるだけが音楽じゃないし、スターダムにのし上がるだけが人生でもない。元来のバンド音楽の楽しさにたどり着き素直になれたであろう彼が、何か違う形で幸せを再び手に入れると切に信じたい。

 


ああ〜〜、すっきりした。自分にはまだまだなんの結論もないんだけれども、辛さの中にどうしても幸せを見出したくて、つらつら書き続けてしまった。あんなに笑い声が不気味に思えた滝野のファンになってしまったからなんだろうなあ。安田さん、滝野に気持ちも体力も持ってかれてるはず。改めて、くれぐれも健康に大千秋楽をむかえてください。

 


純粋と不純、優しさと冷血、器用と不器用、そして仲間と音楽にしがみついてしまったからこその孤独が詰まったラストシーンの滝野の笑い。むしろ頭にこびりつけてこっからもわたしも無骨に生き続けていきたい。無事に人生変えられた、安田さん舞台の初観劇だった。

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